大雨と洪水、それに暴風の警報が出ている。キッチンで家族の朝食を作っている午前五時十九分、今二十分になった。取り乱したように窓にあたるのは金木犀の枝だ。もちろんまだ花は咲いていない。暗い朝の光を歪に映す薄手の型板ガラスがその衝撃に耐えられるだろうか。時折、バイクのエンジンでも吹かすように風が強まり、大粒の雨も打ち付ける。その度にガタガタと窓の全体が震えた。こんな日にはついマサさんを思い出す。正確に言うと、彼と過ごしたある夜のことを。
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あれは、数年続いた冷夏のあとでようやく戻ってきた夏らしい夏。頼まれて、親戚の家族が経営する海辺の宿で住み込みのアルバイトをすることになった。特にお金が必要だったわけではないが、夏休みの予定もこれといってなかった。都会で蒸されているよりは海でも眺めながら過ごす方がずっといい。そんな軽い気持ちで出かけていった。
宿はこぢんまりとした洋館の、所謂ペンションだった。客室は八つでそれぞれに小さなテラスがついている。奥さんが近所に借りた畑でつくる有機野菜と、漁師から毎日分けてもらう新鮮な魚介類を使った料理が自慢で、庭から直接ビーチに出ることも出来た。夏休みの間は予約でほぼ満室になる。仕事は掃除とベッドメイク、食事時の手伝い、片付け、時にはダイビングのインストラクターと、ようするに出来ることはなんでも。ちなみに、ダイビングを最初に覚えたのもここだった。人のいい旦那さんと、若干神経質なところはあるものの優しくきれいな奥さん、それに小学生の兄妹の四人家族に囲まれていると、少し歳の離れた長女のようだった。ある日、ロビーを兼ねた食堂でコーヒーを飲んでいると漁師のマサさんが現れ、
「台風が来るよ」と、言う。
朝食の片付けが終わり、宿泊客は連泊中の一組を除いてすでにチェックアウト済。掃除に取り掛かる前のほんの一時、気を抜ける時間帯だった。歌うように返事をする。
「知ってますよー」
「でかいよ、今回のは」
「みたいね」
数日前から天気予報は警戒を怠らぬようにと呼びかけている。島に渡るフェリーも午後から欠航が決まり、到着出来ない予約客から相次いでキャンセルの連絡が入った。
「漁もお休みでしょ」
「二三日は無理だな」
マサさんは昨夜獲ったクエを持ってきていた。彼は水中銃を使って素潜りで魚を獲る。一発で仕留めるため、釣り上げたり網にかかったりしたものに比べて傷みもなく高値がつくのだというのが自慢だった。そんな彼の船に乗せてもらって、時々、スノーケリングやダイビングをすることもあった。古い漁船で海から上がる時には縄梯子を下ろして貰わなければならなかったが、マサさんがいつでも手を貸してくれた。すでに四十代だったはずだが、日焼けした逞しい腕は力強かった。
あれは、恋だったのだろうか。
「またキャバクラですか」
そう言って揶揄った。小さな島だが一応スナックやキャバクラのような店もいくつかあって、大抵はフィリピンかタイあたりの女の子が働いている。
「そんなとこに無駄なお金使ってないで早く結婚でもすれば」
「うるせぇ。余計なお世話だ」と、マサさんは言い放ってクエの入ったクーラーボックスを抱え、厨房に消えた。すぐに、仕込みをしている旦那さんと話す声が聞こえてきた。
その日の宿には家族とアルバイト、連泊中のカップルの七人がいて、夕方から俄かに強まった雨と風に閉じ込められた格好だった。そこに暇を持て余したマサさんが加わり、夕食の席は宴会になった。
「なんでマサさんがいるのよ」と、つい憎まれ口を叩いてしまうのだが、
「キャバクラが休みなんだよ」
マサさんは少し照れているようだった。
「この際お前でいいや」
「旦那さん、この人にチャージつけといてください」
時が経つに連れて暴風雨は激しさを増していった。食堂の、庭に面した大きなガラスの外側を滝のように、雨と、おそらくは波飛沫が流れた。照明が何度か短い点滅を繰り返した後、ついに停電したのはちょうど食事が終わった頃。まるで見計らったようだと、皆で笑いあった。蝋燭を灯してなおも宴会は続いたが、奥さんと子供たちは風の音に怯え、早々に自分たちの部屋へと引き上げてしまう。旦那さんと空いた皿を厨房に運んだが、洗うのは翌朝電気が復旧してからにする。マサさんと客のカップルはその間もずっと賑やかに焼酎を飲み続けていた。ほとんどマサさんばかりが喋っているように思われ、
「面倒くさかったら付き合わなくていいんですよ」と、聞き役のふたりには言ったが、夜の海でサメと獲物を奪い合ったこと、ダツに目を貫かれた仲間や潮に流されて三日三晩漂流した話、初めて聞く人にとっては確かに、マサさんの冒険譚は興味深いに違いなかった。
「こんな台風の夜にはね、沖合に幽霊船が出るんだ」
「いい加減なこと言ってお客さんを怖がらせないでよ」
「本当だよ。だって俺、子供の頃に見たからね」
「はいはい」と、そのあたりまでは覚えている。
片付けをしながら、多少の酒も飲んだ。奥さんが出してくれたワインが美味しくて、それでも、ゼミの仲間たちと飲み歩く時ほどの量ではなかったはずだ。低気圧のせいだったかもしれない。気づいたら、食堂のソファーでそのまま眠ってしまっていた。隣には、マサさんがいて、けれども彼の方は酔いつぶれてはいなかった。まっすぐに背筋を伸ばして座り、窓の外を睨みつけているようだった。雨も風も弱まる気配さえみせず、停電は続いていた。
「起きてるの」と、訊いた。
「蝋燭、つけっぱなしじゃ危ないだろ」
マサさんは言った。
「それにほら、幽霊船を見なきゃ」
いつものようには笑い飛ばせなかった。その時ふいに、マサさんの分厚い手の大きさを頭に感じた。
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午前六時を過ぎた頃、夫が起きてきた。こんな街中では停電もないだろう。明るいキッチンに現れた彼は頬に軽くキスをして、
「おはよう」と、囁いた。
「ねぇ、あの子を起こしてきてね」
振り向きもせずにそう言った。振り向いて顔を合わせたら、なにごとかを感じ取られてしまいそうだった。
「わかったよ」
彼は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出してグラスに注ぎ、それをゆっくりと飲み干す。
「でも、今日は休校じゃないのかな」
「まだ連絡ないから」
焼いていた鮭を裏返し、味噌汁を温めなおす。あの夜、それから起こったことを思い出しながら。ふたりはまるで、時化の海に浮かぶガラス瓶のなかにいるようだった。揺さぶられ、突き上げられ、叩き落されてはまた抱きとめられ、そうしてとことん翻弄された。あの圧倒的な力が、今は懐かしい。
マサさんとは、あの夏が終わってから一度も会っていない。