長く降り続いた雨があがって散歩に出かける。アスファルトはまだ少し湿っているけれど、雲はあらかた流されてしまってところどころに晴れ間も覗く。午後の遅い時間のせいだろうか、覗いている晴れ間は僅かに暗色が混ざったような強い青だ。群青、といってもいい。公園の滑り台の下に残った水たまりにその色が映り込んでいる。遊んでいる子供はひとりもいなかった。ただひとり、スーツ姿の萎びた男がベンチで菓子パンを食べている。まるで、味なんてどうでもいいという風に。ベンチは濡れていなかっただろうかと、少し心配になった。心配しても仕方のないことなのでそのまま公園の角を曲がって路地を歩いていくと、ゆっくりと、厳かに、周囲に光が満ちていく。雲の隙間から顔を出そうとしている夕日が、路地を抜けた先の、大通りの向こう側にあった。まっすぐに射しこんでくる夕日の色に、紫陽花が、印刷所のおばさんが道端に並べた鉢植えが瑞々しい。彼らが現れたのは、そんな麗しい夕暮れどきのこと。
「あなた今、歌っていましたね」と、それはあまりに唐突だった。
彼らはふたり組で、どちらも青いビニールのような防護服で全身を包んでいる。顔を覆う透明なシールドの下にマスクもつけているので、声はくぐもって聞き取りづらかった。
「歌、ですか」
まったく覚えがない、と強く否定する。
「確かに歌っていましたよ。気持ちよさそうに」
シールドに斜光が反射しているせいで、表情はおろか、彼らの顔立ちもはっきりとは見えなかった。いったいどちらの男が喋っているのかも判然としない。そう、男だということだけは分かった。
「確かに気持ちのいい夕方ですからね」
しかし、断じて歌ってなどいない。歌っていたかもしれないが、意識して歌っていたわけではない。
「いったいなんの歌を歌っていたというんです」
すると彼らは手袋をした手で小さなモニターを確認する。
「それは」
「ご近所の方がね、動画を撮って送ってくれたんですよ」と、それからふっと柔らかな口調になって、「これは、ふむ、懐かしいな」「ほんとに懐かしいですね」と、口々に述べるのだった。
彼らの強硬な態度がほんの一瞬和らいだように見えたので、
「もし仮に、それが歌に聞こえるのだとしたら、歌が勝手に口をついて出たのです。歌のせいですよ」と、笑い飛ばそうとしたけれど、もちろん、このような公道の真ん中でそんなことをすればさらに状況は悪くなるだろう。だから小さな声で、歌は生きているんですね、と言ってみる。
逆効果だった。
「あなた、分かっているんですか」と、さらに威圧的だ。「あなたの行為は新感染症法違反です。第一、マスクはどうしましたか」と、ひとりが言い、もうひとりが後を続けた。「道交法と公安条例にも抵触する惧れがありますね。なにより、我々の立場で言わせていただくと、著作物の無断使用、著作権法違反です」
「我々の立場って」
それで分かった。彼らは官憲ではない。彼らはおそらく、音楽著作権管理団体の人間なのだ。そういえば、町からすっかり音楽が消えてしまって仕事がなくなったその団体の職員が、公衆衛生と公序良俗を守るために臨時で取り締まりにあたることになったというニュースを以前どこかで読んだ記憶がある。
「なるほど、悲しいことですね」
太陽はまた雲のなかに、あるいはビルの陰に隠れてしまった。紫陽花の鉢の裏からもう夜が忍び寄っている。
「もう行っていいですか」駅前の本屋に取り置きしてもらっている新刊を買いに行くのだと説明する。彼らに拘束する権利はないはずだった。
「わかった」と、互いに、おそらく目配せをして言うのだ。「ではこうしよう」
著作権料だけ払えば今回は見逃してやると、気安く肩に手を置いて。手袋の感触が不快だった。
「ふざけるな」と、嘲笑う。遠慮なく大きな口を開けて笑ってやる。「誰も聞いていないし、誰からも金をとっていないのにどうして著作権料が発生するんです」
彼らはだが冷静に、何も分かっていないね、と言わんばかり。
「どんな状況であれ、どんな方法であれ、音楽を楽しむ場合には著作権料を払う必要があるんだよ」
「鼻歌だとしても」
「そう、鼻歌だとしても」
暗くなりかけた路地に立ち尽くしたまま、他にいったいどうすればよかったのだろう。彼らが懐かしいといったその歌を、もう一度、今度はきちんと歌ってやる意外に。歌おうとして歌い、歌うために歌い、歌のために歌い、歌うことで歌い、歌いながら歌い続け、そうすると歌が歌えと求めるのだ。もっと歌え、もっと高らかに。そうだ、それでいい。昔、カラオケがまだ合法だった頃に夜通し歌った歌たちが今、次から次へと解放されていく。彼らの慌てようは見ものだった。なんとか取り押さえ、口を塞ごうとするのだが、歌は止まらない。歌は自由だ。どこにだって行ける。どこまでも届く。空に、天使の階段がかかっている。気のせいだろうか、町のどこかで別の歌声も聞こえる。
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