明るくて暗い星

「で、どうする」

まるで自分の声じゃないみたいだ。

暗く静まりかえった洞窟の奥のような部屋にひとりでいる。目の前に映し出された3Dホログラムの彼女だけが外の世界と辛うじて繋がっている。

「例の話」

「どっちの」

午前八時、彼女は外出日だったようだ。UVカットの防御服をまだ身につけている。

「移住だよ」

「あたしは子供が欲しいの」

「分かってるよ。だから向こうで、ヘルシンキに引っ越して落ち着いたら作ればいいじゃん」

「そうは言ってもなんのあてもないんでしょう」

暑いわ、と彼女がその場で上着を脱いだ。作業服のような防御服の下にこれほど豊かで美しい肉体が隠れているなどと誰が想像できるだろう。彼女に触れたかった。

「とりあえず会わないか」

僕がそっちに行くからと提案するけれど、彼女が乗り気でないのは見るからに明らかだった。ホログラムの解像度も最近では随分と上がって、細かな表情までよく分かる。

「ダメよ。免疫力が落ちてるから濃厚接触は自粛中」

「だけどそれじゃあ子供なんてできないよ」

「できるわよ。郵送して体外受精してもらえば」

「そんなのやだよ。もっと、なんていうか人間らしい暮らしがしたいんだ」

人間らしいってなによ、彼女は高らかに笑った。

「あなた、ただやりたいだけでしょう」

そんな時代遅れの欲望は恥ずかしいと。

「それにもう日は高いのよ。危険過ぎる」

大丈夫だよ、といくら言っても無駄だった。近所の目があるし、監視アプリも動いている。彼女が恐れているのはむしろ、そちらの方なのだ。

「ねぇ、最近、昔の映画をよく観るんだ」

「そう」

青空の下に人々の営みがあった時代の。

「明るい陽射しのなかで恋人たちが抱き合ってキスをするんだ。子供たちが賑やかにそれを冷やかして走り去る。路上マーケットでは新鮮な野菜が輝いていて、それにみんな、とってもおしゃれだ。野暮ったい防御服なんか着てないし、カラフルで」

「そんなこと今さら言っても仕方ないでしょう」

「だから、そういう暮らしをさ、向こうで」

「だって、ほとんどの国はもう外国人の受け入れはしないって」

それはその通りだった。だから、今しかない。今ならまだ、ロシア経由で潜り込めるかもしれない。幸い、故郷で頑なに漁師を続けている幼馴染がウラジオストック近郊のナホトカまで船を出してくれるという。上陸さえしてしまえばなんとかなる。

「なんとかなるわけないでしょう。シベリア鉄道なんてもう動いてないのよ」

「それでも、行きたいんだ。君と」

「この話はもう止めましょう。12月頃になったら少しは出歩けるようになるから」

それまでは我慢して。

「こんな時代なんだから仕方ないでしょう」

彼女はそう言って一方的にログアウトする。

僕はカーテンを閉め切った部屋のなかでまたひとりぼっちだ。12月まではまだ半年以上ある。最後に生身の人間に会ったのはいつだっただろう。カーテンの隙間から窓の外を覗いてみるけれど、漂白されたような光が降り注ぐ街は人っ子一人歩いていない。救急車の音以外はなにも聞こえない。その時ふいに、バッタがひと固まり、礫のようにガラスにぶつかってきて思わず飛び退いた。アフリカのバッタだ。虫だけが活き活きと地球を飛び回っている。



日中の外出を控えるよう政府が国民に要請したのは2038年の五月だった。翌年には所謂昼夜逆転法が可決成立し、役所や銀行、企業などの就業時間が一斉に午後8時から午前5時までとなった。夏のUVインデックスは30というレベルにまで近づきつつあり、言われなくてももう誰も太陽の下で活動しようとは思わない。東京や大阪などの最高気温は連日40度を超え、10分も日射しを浴びていれば火傷をしてしまう。1987年に調印された「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」によって一時は回復するかに見えたオゾン層だが、結局はその崩壊を数十年遅らせただけだった。2020年のあの疫病の年、新型ウィルスに対する抗体も特効薬もない状況でおよそ50万人が、ワクチンも薬もあったはずのインフルエンザでも30万から60万人が亡くなったが、紫外線が原因とされる死者数はわずか6万人だった。それが今やすっかり逆転してしまった。ウィルスによる死者数は微増微減あるにしろ毎年ほぼ変わらず、一方、皮膚がんの発生は一億件以上、死者の数は400万人にも達している。あの段階で、オゾンの損傷と温暖化を食い止めるより強力な国際的協調が出来ていたら、あるいは今も、明るい陽射しのなかで遊びまわる子供たちの歓声を聞けたかもしれない。思えばあれが、マスクの常時着用や他者との接触を減らすなどという非合理的でバランスを欠いた対応で済まされた、最後の長閑な時代だったのだろう。



人々はもうマスクなどしていないが、外出する時には全身をUVカットの衣服で包み、フルフェイスのシールドと帽子を被っている。全ての窓には遮光カーテンが必須で、一年中雨戸を閉ざしている家も多い。夜の街は煌々と明るく賑やかだが、日中に出歩く人はほとんどいない。居酒屋やバー、風俗店などは未明に営業を開始し、正午には店じまいをする。それでも、完全防備の上店まで足を運んでくれる客は稀だった。実店舗は次第に淘汰されてしまって、今では3Dホログラム映像とVRを活用したオンライン・サロンが主流だ。日光を完全に遮断した暗い部屋のなかで仮想現実を相手に酒を飲み、食事を楽しみ、会話をする。そんな日常が当たり前になってしまった。日光に当たらないせいで不足しがちのビタミンDを補える食品、例えば鮭や鯖、きのこ類などの高値が続いている。もとより、一次産業の就業人口は長年減少を続け、食糧の需給バランスが狂ってしまった市場はもう機能していない。政府はサプリメントの配布を始めたが、骨粗しょう症や心疾患を患う人が急増し、自殺率も跳ね上がった。そんな世界で僕らは生きている。

「今の時代、仕方ないのかな」

そう言い続けて死んでいった父のことを思い出して僕は思う。

ひとりでも行くしかないのか、と。








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