卒業するの。
旅行代理店でカルカッタまでの航空券を手配して宿に戻ると、日本人の女性がふたりチェックインするところで、ちょうどよかったと、メーに手招きされる。メーはタイ語でお母さんという意味だが、もちろん本当の母ではない。この宿の客は皆、そう呼んでいるのだと説明した。
「ほら、頼りがいありそうで、そんな感じでしょ」と。
彼女たちが笑ったので、メーが僕を睨みつける。
「なに言ったのよ」と、英語で。
「いい人だから安心してって」
メーは疑わしそうにしていたが、すぐにいつもの、温和な垂れ目に小皺を寄せて、あとはよろしくと言うのだった。それで僕は鍵を受け取り、彼女たちを部屋まで案内し、共同のトイレとシャワー、キッチンや食堂などの場所といくつかの決まり事を教えた。そうして最後に物干し場にもなっている屋上に上ると、虹色のシートの下の日陰でアレックスがギターを弾いている。傍らのサマーベッドの上には猫のフォンが丸くなっていて、自分の手の甲に頭を預けて昼寝中だ。それを見た途端に、可愛い、とふたりは一オクターブも高い声を上げた。
「タイ語で雨。変な名前でしょ」
「でもなんか分かる。夜に降る雨みたい」と、適格な表現をしたのがヨーコ。彼女が近づいてその背中を撫でても、フォンはほんの少し目を開けただけでされるがままだ。
「慣れてるね」
サオリも隣にしゃがんでそう言った。ヨーコとサオリ、ふたりはさっき、そのように自己紹介をしたのだった。所謂卒業旅行だという。それを聞いて、きっと僕が怪訝そうな表情をしたのだ。サオリが可笑しそうに、
「老けてるな、とか思った」と、言った。「違うの。卒業するのは大学とかじゃなくて」
「大学院」
「まさか」
僕はそんな会話を思い出しながら、ならばいったい、彼女たちは何から卒業しようとしているのだろうと、ふたつの小さな背中を眺めている。
バンコクらしい紗のかかったような青空に黄金色のストゥーパが映える、風の心地いい一月の昼下がりだった。
次に彼女たちに会ったのは翌日のことで、ほぼ毎朝通っている粥の屋台だった。早朝六時頃から銀行の前で営業を始め、銀行が開店するまでの二時間半で仕込んできたほぼ全てを売り切るなかなかの繁盛店だ。メーによく似たおばさんがひとりで切り盛りをしている。客は大抵、プラスチックの丼に注がれた鶏モツ入りの粥を銀行の階段に座って啜るのだが、そこに、ふたりもいた。
「おはよう」
声をかけると、
「昨日はどうも」
丼とアルミのレンゲスプーンで両手が塞がった状態のまま、サオリが小さく会釈をした。
「美味いでしょう、ジョーク」
「とっても」と、ヨーコが言い、サオリは笑って、
「なんだか自分が作ったみたい」
「いや、でも、ここのは最高だよ」
そう言って僕はいつもの温泉卵入りを注文し、そこに用意されている調味料の、砂糖以外の全てを適当に投入した丼を手にサオリの隣に腰掛けた。二頭の野良犬が離れたところにおとなしく寝そべっている。
「今日はなにするの」
「特になにも」と、サオリが答えた。「まっちゃんは」
「松枝さんでしょ」
ヨーコは窘めたけれど、まんざら悪い気はしない。
「俺も予定はないよ。時間を潰しているだけだから」
「あたしたちとおんなじね」
ヨーコがサオリの陰から顔を覗かせて言った。そうしてふたりでなにごとか目配せをしたようだ。
「そうなの」と、それで僕は、気になっていた昨日の話を蒸し返す。「ところで、卒業ってなに」
「別に隠すようなことじゃないけど」
サオリははぐらかすように笑って言う。
「色々とね、あるでしょう」
暑くなりそうだった。熱をもったアスファルトだろうか、あるいはゴールデンシャワーやサルスベリといった街路樹に寄生した蘭の湿った呼気のせいかもしれないが、生まれたての夏の匂いがする。日本でも、例えば五月晴れの日中、地下鉄の階段から出たあたりでふいに同じ匂いを感じることがあって、そんな時には鼻腔の奥の方が妙に甘酸っぱいのだった。
「男か」と、あえて下衆な勘ぐりをしてみると、
「もう、おじさんはすぐにそういう想像をする」と、サオリはあっけらかんと笑い飛ばした。
ワット・アルンでも行ってみる、と誘ったのは僕だ。久しぶりに日本語で会話をするのが少し楽しくなっていた。
「暁の寺っていうくらいだから朝が綺麗だよ」
すでに日は高く、白い仏塔を染める暁光の赤みは消えていたけれど。
僕らは粥を食べ終えると、プラアーティットの船着場まで歩く。夜の遅いカオサン界隈はまだ眠っているようだったが、それでも開いているTシャツ屋や土産物の店はあって、彼女たちはいちいち立ち止まっては物色するのだった。
「まっちゃんはさ、なんで時間を潰してるの」
とある店先でヨーコとボディピアスを選んでいたサオリが、ふいに振り返った。
「なんでって、インド行きの飛行機が来週のしか取れなかったんだ」
もとより急ぐ旅ではないのだから、そうでなくてもずっと暇潰しをしているようなもので、そこに理由などなかった。
「へー、インド行くんだ」と、サオリが隣に来て言った。「修行かなにか」
冗談のつもりだったのだろうが、まぁね、と僕がすぐに否定しなかったものだから微妙な間が空いた。やがて徐に、サオリがまた口を開く。
「あたしは、ロンドン。日本を卒業するの」
「留学とか」
「そう。でも留学は手段なの」
とにかく日本が息苦しいのだと言う。顔さえ見れば結婚の話しをする両親や親戚、恋人はいないのかと平気で不躾な質問をする上司、近所の目、世間体、女らしく年相応に…なにもかもうんざりなのだと。
「サオリは向こうに住みたいのですって。だからこれがふたりにとって最後の旅行なの」と、ヨーコが十字架のついたリングを手にしている。「あたしはだから、サオリから卒業するの」
そうして顔いっぱいに笑みを開き、それはどこか、俯きがちに咲くバンダを思わせるのだった。鮮やかな影が滲んで、
「これ、サオリにプレゼントしようかな」
「ピアス」と、それを受け取ってサオリも微笑んだ。「いいね」
僕はなにか言おうとして、
「ピアスにしては太いな」などと、間抜けなことを口走る。「そんなごついのどこにするの」
すると彼女たちは揃って僕の方に向き直り、思春期の少年をからかうような思わせぶりで艶かしい声を作った。
「ないしょ」と。
その日のワット・アルンは、いつにも増して白く輝いて見えた。生まれ変わりでもしない限り、触れられそうもないくらいに。