「知っていること」と「知らないこと」の境界線と「低空飛行」(原研哉)
いま、MBAコースで通っている大学院の講義で、「知っていること」と「知らないこと」の境界についての話があった。
白紙の上に円を描いて、円の中を「知っている」としたときに、「知らない」はどこにあるか?と問われ、当然のことながら円の外側が「知らない」領域だと考えた。しかし、教授の答えは違った。
「知らない」は「知っている」の円の線上、つまり境界線にある、と言う。「知っている」と「知らない」を区分しているのが円であるならば、その円の境界が「知らない」のである、と。
そして円の境界線の外側は「知らない」ことを「知らない」領域である、と説明された。円を大きくする=「知っている」ことを増やす、と自分が「知らない」と知覚していることが増え、「知らない」ことすら「知らない」領域が小さくなっていく、ということだ。
いささか哲学めいた話だが、要は知を集積することは、自分がいかに無知であるかを認識し、だからこそ、もっと知を集積する必要がある、という正のスパイラルが重要だ、と伝えたかったのだと思う。
この考え方に近い話を「低空飛行 ーこの国のかたちへ」(原研哉)の中で読んだことを思い出す。本の一節にはこう書いてあった。
『人は「知ってる、知ってる」と2回言う。しかし何をどれだけ知っているのか。情報の断片に触れただけで知っているつもりになっているように思える。今日、効果的なコミュニケーションは、情報を与えることではなく、いかに知らないかをわからせること、である。既知の領域から未知の領域へと対象を引き出すこと。これができれば人々の興味は自ずと呼び起こされてくるのである。』
著者の原研哉は日本デザインセンターの代表でもあり、日本のデザイン界の大御所でもある。昔、原研哉の「デザインのデザイン」という本も興味深く読んだこともある。その原研哉の知に対する考え方のベースは、知の円の例えでいうと、「知っていること」の円は二重になるのかもしれない。内円は「本当に知っていること」、そして外円は「知ったつもり」になっていること」、その外の領域は「知らないこと」すら「知らないこと」になるのだと思う。「知ったつもり」の領域は「知らない」ことの境界線が線から領域へ膨らんだだけでもある。
大学院の講義も原研哉の考え方のいずれも、「知らないこと」を「知る」ことが大切だと言っている。最近のぼくは、学んで知ったことは右から左に頭の中を通過して流れ落ちていき、知ったつもりで、きちんとした理解や定着ができていない、と反省する今日この頃。のほほんと生きていくのもよいけれど、もっと「知る」ことに貪欲になり、「知らないこと」を一つでも多く増やす努力をしなければ…