せめて「楽し」く。
ここ最近、頭痛がひどい。
歩くごとにズキンズキンと痛む。恐らくストレスから来るものだろう。だが、解決しようにも、思い当たる原因がありすぎる。日中はロキソニンを飲んで、夜は肩こりや目の疲れをとるようにして……それくらいの対処しかできない。
とりあえず気分転換をすれば、何かしら改善するのかもしれない。そう思って、私は所属しているサークルの活動に出かけた。
いまのサークルには、大学院生になった春に所属した。メンバーの大半は年下の学部生で、大学院生は私一人である。活動が終わり、みんなで銭湯に行った後、休憩所でOという二年生のメンバーと話していた。
「最近、将来なにやろうかな~って考えているんですよね」
彼は自分の将来にまつわる話を少しだけ披露してくれた。現在の専門とは違う分野にも学びを広げ、海外も視野に入れながら活動の幅を広げていきたい様子である。
ひと通りはなしを聞いたあと、私は
「何やってもいいんじゃない?」とこたえた。
あまりにもベタな反応だが、実際、心からそう思う。彼と話すようになったのはここ数か月ちょっとであるが、なかなか個性的な生態の人間であることが分かってきた。
彼は何に対しても好奇心旺盛である。専門分野外の学問にも積極的に興味を持って本を読み、テスト期間中には家具を一つ作るという不思議なクリエイティブ精神(?)を持っている。
とにかく、心身ともにバイタリティ溢れる彼のことだ、どう転んでもオモシロイ人生を送るに違いない。だから「何をしてもいい」そう思ったのだ。
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翌日、いつものように大学に出かけた。
レポート期限が迫る焦燥感を抱えながらの勉強はつらい。私はため息をつきながらパソコンを開いた。そのとき、ふとOとの会話を思い出した。
そういえば私も二年ほど前、Oと同じように自分の将来のことを考えていた。
「就職したほうがいいのかな、それとも、まだ勉強したりない気がするし、大学院に行こうかな」
まったく先の見えない未来に、期待と不安を抱えていた。
今の私は、その時の自分に対して、
「こんなをことやっているんだよ!」と胸を張って言えるのだろうか。
私はいま、自分のやっていることを、自分で誇ることができない。
提示された課題や、恐らくやったほうが良いと思われることをこなしているだけで、
私の営みには、誰かに興味を持ってもらえるような面白さも、意義も、何もない。
昨日はOさん含めいろんな人と話す機会があった。
同世代で学問に向き合う人間と話すと、決まって湧いてくる疑問がある。
私は何のために、文学研究をしているのだろうか。私の研究の価値って、何だろう。
「伊崎さんは、どんなことを研究しているんですか?」
と聞かれると、いつも言葉に詰まってしまう。
「○○年代の○○を研究しています」
「この文学における語り手と登場人物とのかかわりあいが…」
と頑張ってわかりやすい言葉を探しながら説明しても、相手から帰ってくる反応は、
「へぇ、そうなんだ~」
「ふ~ん、難しそう」
とすっきり納得していないものがほとんどである。
そんなとき、心に陰りがさす。
私の研究なんてしょうもないものなのだ、と感じる。
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私の研究は、わかりやすく何か社会の「役に立つ」ような、「困っている人を助ける」ような報いを得られるものではない。
だから、困っている人を助けて、笑顔にしている人や、それに繋がるような研究を見ると、自分のいまの生き方がとてつもなくしょうもないものに思える。私は親に何百万円も払わせて、一体何をやっているのだろう、と。
もしかすると、私はただ知的好奇心を満たしたいだけなのかもしれない。自分にとっての「文学研究」は、ただ知識を得て、交換するためのコンテンツに過ぎなくて、「未知」が「既知」に変換されることに、興奮していただけなのかもしれない。
「知的好奇心を満たすだけの営み」いまの私の生き方を一言で集約すれば、そんなものなのだろう。
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せめて「おもしろい」「楽しい」という気持ちが保てればいいのに、今の自分は「おもしろいからいいじゃん!!」と押し切ることもできない。
タイムマネジメント能力の不足なのか、それとも努力不足なのか、おそらくその両方であろうが、納得のいく結論はなかなかでない。どうせ今回も不完全燃焼になるのだろうなぁ……と予測しながらやるレポートに「楽しさ」を見出すことはできない。
むかしはあんなに楽しかったはずの研究。それなりに自分にとっての価値を見出していた研究。そのどちらの考えもいつの間にかどこかに消えていて、ただ心身ともに生き延びることを願いながらがむしゃらに文字を打ち続ける毎日。
いま私は、何のために生きているのだろう……
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そう考えていると、涙が込み上げてくる。
そして、すべての人々に謝りたくなる。
お母さん、ごめんなさい。
お父さん、ごめんなさい。
こんなしょうもない研究のために、
休んだり、予定を伸ばしたりして、
迷惑をかけたすべての関係者の方々、ごめんなさい。
そして、いつもゴミみたいなレポートを読ませてしまう先生。こんな自分のために貴重な研究の時間を取らせてしまい、ごめんなさい。
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私は何にも手をつけることができないまま、パソコンを開いていた。そして、気づけばnoteの編集画面を開いていた。恐らく私は、何か書きたかったのだと思う。
私はいま、湧いた感情を素直に受け止めることができないほどに、自分の判断に自信を失っている。
昔から、壁に直面した時にはよく「暗示」をかけていた。例えば、苦くて苦手だったゴーヤは、「今感じている"苦い"という感覚は、実は他人の言う"うまい"に相当するものなんだ」と暗示をかけることで一時的に乗り越えることができた。
中学体育の時のシャトルランも「この苦しさが楽しいんだ」と思えば、どんなに息が苦しくても、足が動かなくなるまで走ることができた。
もしかしたら、私は単純に知的好奇心を満たすものがほしいために、文学研究を「楽しい」と思い込んできたのかもしれない。その結果、「楽しい」と感じていたはずの過去との矛盾を感じているのかもしれない。
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日に日にひどくなっていく、頭痛、怠さ、吐き気。体の痛みは、自分が自分の本音を知ることができる、数少ないツールだ。
せめてその痛みくらいは、素直に受け止められるようなりたい。
私は頑張らないといけない。昨日目撃したOのキラキラした目を、私もかつては持っていたのだろう。過去の自分が「その人生、結構オモシロそうじゃん!」と希望を見出してくれるように、頑張らないと。
そのためにも最低限、体だけは健康でありたい。
fin.