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不幸な人は反省が必要

自分が不幸なのは、神様の嫌がらせだと思っていた。

なんでこんなに世の中は意地悪で、誰も彼も無自覚に無邪気に冷淡で、無関心で、馬鹿で。…自分は悪くないのに。

例え自分が人としてどこか筋が通らないことをしたとしても、
不幸な自分は、辛いことがあってどこか狂ってる自分は、他人に狂わされた自分は、こうなってもしょうがないじゃんて、心の奥底では思ってた。

それでも自分は悪くないって。

だけどそんなこと思ってないフリして、上部だけでごめんなさい、私が悪いんですってって言っていた。

そういう発する言葉とは反対の気持ち悪い本音は、多分、自分では無自覚でも、他人からはよく見える。
私は相当気持ち悪い人間だったんだろう。

不幸な人間は何故不幸なんだろうかと考えた。
それは多分、自分の主観で「自分は不幸」だと思ってるからだ。
そして、共通しているのは。
自分を幸せにしてあげる努力を一切してない。

自分を幸せにする努力というのが生きていく上で一番大事なんだ。
少なくとも、日本では。

それは義務教育では教えてくれない。
教育って、なんて欠陥だらけの薄っぺらさなんだろう。
親ですらそれを分かっていなくて、つまり大人ですら出来ていないから?

誰かの言うことを聞くいい子でいたら、善良な行いをしたら幸せになれる訳じゃない。
清く正しい行いをしてても、そこに自分の意思が乗らなきゃ意味がない。

今世が前世の反省部屋だとしたら、私は一体何をやらかしたんだろう?
反省しなくては。
不貞腐れてる訳でもなく、そう思う。

自分が不幸だと思っていると、知らず知らずのうちに「私が世界で一番不幸なの」選手権にエントリーしてしまうから、周囲に「もっと労わって」とか図々しくなったり、不幸そうな他人を見ても「何だよそのぐらい。生ぬるいわ」とか思ってしまう。

そういう驕りで視野が歪んで、他人に無礼になる。
もう、存在が迷惑になる。

勿論、自分が渦中にいる時はそういう「不幸人間」の面倒臭さや取り扱いの難しさには無自覚だった。

けれど、自分が親になったり、仕事で人の悩みの相談に乗ったりして、その害悪に初めて気がついた。

結論。
不幸は迷惑。
不幸は公害。

どんな理不尽な目に遭ったとしても。
その人にはそこから抜け出す義務がある。
綺麗な手段でなくてもいい。

自分を不幸にすることがこの世で最も重い罪。

そうでなきゃ、自殺が大罪だなんて、どの宗教でも、どの教えでも、言われることはない筈だものね。

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