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かわいいを今日も振り返る

 ねこが闘病期間に入ってから、がんばって、なくなって、その後まで。
 ここに記録として残っているそれらの物を、今日は久しぶりに読み返した。
 ぼろぼろと泣いていた。泣いている理由はよくわからなかった。ねこのことを思い出して会いたくなったのか、つらさが胸にしみたのか、そういう心の動きも特になかったように思うが、号泣のように涙が出続けていた。
 わかったのは、「書いておいてよかった」ということだけだ。
 そうやって自分の記録を読み返していたら、noteに書かれている他の人のペットロスの話が、類似のものとしておすすめされてきた。
 それぞれの悲しみ、それぞれの楽しかった暮らし、たくさんあるんだろうな。

 先日会った人に、尋ねられた。
 「おーど・りーがなくなって、それからどうやって日々を過ごしてこれたのか」と。
 ねこの名前を挙げて尋ねられたので、この人はおそらく、俺が書いておいたことをある程度読んでいる。
 そしてたぶん、俺の絶望も知っている。これ以上の悲しみもないし、これ以降生きていても過去以上の楽しみはもうないと、確信した上で俺がお別れを選んでいたことが、書いたものからある程度伝わっている。
 なので、「もう死んでしまってもいいようなことがあったのにどうやって生き続けているのか」というのを、聞きたいのだろう。俺はそう解釈した。
 そこには答えが既にある。「悔やむために生きている」と。

 別れの悲しみを、自らの死ですぐに終えてしまうわけには行かないと決意した上での、別れだった。
 だから俺は、希望がなくとも日々生き続けなければならない。そこまでが命を奪ったものの責任だと考えていた。
 偲んで悔やむ。悲しむために生きている。
 今日みたいな日は、特にせいいっぱい悔やもうと、自分の記録を読んでいた。お別れを決めたのはこの頃だったから、ある意味では命日よりも思い出深くはある。
 そろそろ疲れた。
 心身は弱い。じっとりと、疲れている。

 同じ人にこうも尋ねられた。「もうねこは飼わないのか」と。
 俺は「伴侶がいれば考える」と答えた。この言い振りだとざっくりとした表現になってしまっているが、要はこういうことだ。
 生き物の面倒を一人で見るのは大変だから、いざというときにそばに頼れる存在がいるようでないと、今度はちゃんと看取れないかもしれない。今回最後まで隣で付き合えたのは、運が良かった面も多い。
 一緒に命の世話をするような存在は、親しい間柄の人じゃないと無理だ。
 だから、飼えない。俺と歩んでくれる人はいない。

 こういう質問は今までほとんどされたことがなく、答える機会もなかったのが、一周忌を迎える直前に不意に尋ねられ、そのために用意していた答えがあるわけでもないのにその場で語ることが出来た。
 皆が気を使って聞いてこなかったであろうことを、ちょうどいいタイミングで自分の口で話した。
 思いは変わっていないんだな。何かが自分の中で定まっている。ちゃんと考えて決めることが出来たからなのかもしれない。揺るがない。でも、疲れている。

「ねこを看取りながら今年いっぱいやり過ごすことが重要、その先は無視」
 うちのねこの病気が発覚してから、その後の生き方を決意して看病を始めた際に、毎日見るメモの冒頭にこの一文を書いた。
 だから、ねこがなくなる前も後も、方針はずっと変わっていない。
 もう必要のない一文なのに、未だにこの一文が消せず、メモに残されている。

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