近況報告(ねこが人形になって見ている)
ねこを火葬して納骨してきました。
分骨用容器のマスコットに、おーど・りーによく似たものがあったため、しっぽの骨を入れてもらって持ち帰る。
こんな形で家に帰ってくると思わなかった。これを書いている間も、手元でずっとこっちを見ています。かわいい。
お別れは生きている間にしなくてはいけないと思っていたので、生前いっぱい話していっぱいなでていっぱい食わせて、たまにしかって噛みつかれ、というのをやりましたが。
なくなってから火葬までの間にもいっぱい話しかけてしまい、朝は「おはよう」から始まったし、その後もずっと話しかけた。だいぶ泣いた。
家からいなくなったあとはもう話しかけないというか、それは空に向かっての独り言になるだけだよな。ところがこんな分骨用マスコットを手に入れたので、またも話しかけてしまう。
なー。りーさんなー。って言っちゃう。
この容器が駄目になるまで話しかけるか。すごく安定性ないからいつ壊れるかわかんないんだよなお前。座布団を追加購入したせいでは?
だってこっちのほうがかわいいし、おーど・りーっぽい。
もう助からない病気にかかったとわかって、なくなるよりだいぶ前に決めていたプランでは、火葬に立ち会うことも納骨もしないことになっていた。
元々こうした儀礼的なことに興味がないタチなので、焼いて終わりでいいと思っていた。俺自身が死んだ時もそれでいいし、親もそんな感じのことを言っている。
でも、「ここで選択を失敗したらその後悔は取り戻せないな」と気づいて、また今後の生涯で二度となさそうな自分の飼い猫のペット葬でもあり、やれることは全部やることにした。
結果、してよかったように感じる。なくなったあとも話しかけてしまっているのも想定外だったし、なくなった後の火葬までのお別れが改めてここまでつらいとも考えていなかったし。
これから毎日悔やみ続けることが山ほどある。その悔やみが火葬と納骨で少し減ったなら、よかった。
焼いて骨を収める際に、顎の下の大きな病巣が焼けずに残っていた。
こいつのせいで恐ろしくつらい目にあった。憎みたくなる。
納骨を手伝ってくれた係の方が、ねこを飼っているそうで、親身に俺の話を聞いてくれて励ましてくれた。
「動物を飼っていてこのお仕事は大変でしょう……」と、今思えば不躾なことを言ってしまった。
「そうですね……。でもね、だからこそ皆さんのお話を当事者目線で受け入れられるところもあるというか」と返され、「本当にそうだと思います。俺は今、同じねこの飼い主としての励ましに助けられています」とお礼だけはちゃんと伝えた。
こういう志の仕事に取り組めるの、いいな。心から素晴らしい。
その後は納骨堂まで自分の手で運び、収めてきた。
納骨堂にも、火葬場にも、たくさんの飼い主のメッセージカードが残されていた。小3から24歳まで一緒に過ごしたという人もいる。それは身をちぎられるような別れだろう。ちいさいお子さんのつたない字のお別れもある。
そんな中に、「助けられなくてごめんね」というメッセージがいくつかあった。俺も同じだ。「そんなことないよ」と声をかけてあげたいけれど、俺も同じだ。
思っていたより時間がかかり、何時間も過ぎた。
納骨を終えて遅い昼飯を食って、帰宅してすぐに湯船に入る。久々だ。
ねこが常に呼ぶので入れなかった湯船。もうのんびり浸かっていていいのに、外から物音がすると「呼ばれた」と一瞬反応してしまう。
一時間ほどぼんやりして、妙に冷えるなと思ったところで、浴室のドアが開きっぱなしなことに気づいた。「なんで閉めてないんだよ寒いだろ。……ねこが呼ぶかもしれないから開けてるのか! そうかー……そうかー……」
自分の無意識にしみじみ感想を漏らし、ドアを閉めた。
風呂上がり、「この服はねこが汚したから洗わないとな」と脱ぎ捨てていた部屋着を、面倒くさがってそのまま着てしまう。案の定服は少し臭くて、「洗ったらこの臭い消えちゃうのか。洗いたくないな……」と考える。
もうこのまま全部捨ててしまえばいいと思って、ねこの最後のおしっこを片付けていない猫砂も、トイレにある。そこには、ねこの最後の足跡が残っている。これも片付けたくないな。
あちこちに思い出があって、ずっと付き合っていくのだろうし、少しずつ忘れていくのかもしれない。
とりあえず、座布団に乗ってまだこっちを見ている。
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