人権が弱者男性を生み出すという3つの根拠 シリーズ「弱者男性はどこへ往く」第3章
僕はこれまで、「人権」が発明されて以降それまでの物資の多寡に重きを置いていた「身分制」が崩壊し、それまで「弱者」とみなされてきた存在が人権の恩恵を受けることになり、恩恵の枠からあぶれ「新たな弱者」となってしまった存在こそが「弱者男性」だと主張してきた。
しかし、「人権が存在する」という虚構が、もはや神聖視されてしまっていると言っても過言でないほど蔓延してしまっているこの社会で、「人権」こそが新たな弱者を生み出してしまっているという理論を展開してもなかなか咀嚼してもらえないというのがこの現状だろう。
そこで今回は、「人権」という物がどのような性質を持っていて、その故に弱者男性を発生させてしまっているのだということを理解してもらうために、3つの根拠を示して説明していきたい。
弱者男性にとっては、なぜ自分が弱者男性になってしまったのかについての理解を深めてもらうため――
それ以外の人にとっては、自分がいかに弱者男性という哀れな存在を踏み台にして今現在の立場を享受しているかを理解してもらうため――
叶うとも思わないが。足搔けるだけ足搔いていこうと思う。
①人権は「無能者差別」を容認する
我々日本国民が人権というシステムの庇護下にいられるのは、「日本国憲法」によって「基本的人権」が保障されているためであるが、その中にはこのような記述がある。
おわかりいただけただろうか。
日本国憲法には「能力によって差別されない」とは書かれていないのである。
憲法条文には「差別をしてはならない」という「無条件に差別はNO」という表記はどこにもなく、「○○によって差別されない」という「特定条件での差別はNO」という表記しかないのだ。
つまり、条文にも示されている「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」によっての差別はダメだが、それ以外での差別、つまり「能力によっての差別」はOKということになってしまっているのが日本国憲法における基本的人権の考え方なのだ。
まあ、考えてみれば当たり前の話。もし「能力による差別もだめ」などという文がここに追加されたらとんでもないことは目に見えている。
例えば受験の際、合格点に満たず落ちた受験生が「能力が無いからって入学させてくれないなんて差別だ! 憲法違反だ!」となってしまい、そもそも受験だとか試験だとかいうものが軒並み成立しなくなってしまう。
そのため条文に「能力によって差別されない」などという文言は入れなかったということは理解はできるのだが、しかし「能力による優劣」を認める一方で「性別による優劣」「身分による優劣」等々を一切認めず、かつての社会で「劣っている」とみなされていたもの全てを救い上げてしまい弱者男性だけを取り残してしまったことに、「人権こそが弱者男性を生み出してしまった」というロジックが成立してしまうのである。
②「人権」下において「弱者男性」は存在するが「弱者女性」は存在しない
弱者男性について語る際、「弱者男性より先に弱者女性を救うべき」という言論が出てくることがある。
しかし、僕は逆に言いたい。「人権」というシステム下において本当に「弱者女性」などという物が成立しうるものだろうか? と
「弱者女性」という物に対する解像度を上げるために、まず先に「弱者男性」とはどのような存在なのかについて改めて定義を確認しよう。
「弱者男性」とは「何も持たざる者」という意味であると僕は考えている。
それは単に、能力が無いとか資産を持たないとか、容姿に恵まれないとかそんな一義的な「持たざる」だけを意味しているのではない。
「人権」というシステム下において、その恩恵にあずかるための「ラベリング」を何も持っていないことを示している言葉こそが「弱者男性」なのである。
「弱者女性」?
何だその意味不明な言葉は。恥を知れ。
女性は、女性と言うだけで「旧社会における弱者であった、現代において優遇されるべき性」という「ラベリング」を持っているではないか。
女性は、女性であるという理由で現代社会において政治的・経済的恩恵措置を受けていないのか? 受けているだろう?
大学受験における女子枠の設置は一部大学で行われていることだし、男女雇用均等法やら男女共同参画社会やらは「平等」の名のもと女性がより働きやすくなるよう働きかける者ばかりだ。
勘違いしないでほしい。僕はそれら「女性優遇措置」が間違っていると言っているのでは決してない。むしろ現代社会において女性はそれら優遇措置を受けてしかるべしと考えている。
当然だ。
仕方がない。
だって女性こそが「社会における弱者」なのだから。そういう動かぬ「ラベリング」を持っているのだから。
だからこそ「何も持たざる者」という意味での「弱者女性」などという物は存在しない。あるのは「弱者男性」だけなのだ。
③弱者男性からの脱却は他ならぬ人権によって阻止される
弱者男性が「人権」によって生み出され、保持され、冷遇されていると言える3つ目の根拠がこれだ。
何も持たざる存在である「弱者男性」が再びのし上がり「弱者男性」から脱却するためにはどうしたらいいか。
答えは単純で「物資を獲得すること」だ。
お金を得ること。資産を手に入れること。家族を築くこと。仲間を作ること。
自分の居場所を創り上げること。
「物資」にも様々あるが、どれか一つだけでも良い。自分にとってかけがえのない大切な物だと断言できる何かをその手に得るだけで、彼は「弱者男性」から脱却することができるだろう。
物資を獲得する方法には大きく3つある。
「自ら生み出すこと」
「他者から施されること」
「他者から奪うこと」
しかし、弱者男性は「自ら生み出す能力」に乏しい。乏しいがゆえに「弱者男性」になってしまうのだから当たり前な話だ。
お金が欲しくても、自分だけの家族を得たくても、自分の居場所を作りたくても、彼自身の能力だけではどうにもならない。ゆえに彼は弱者男性から自分の力だけで抜け出すことなどできないのだ。
そして弱者男性は「他者から施されること」もほぼ起こり得ないと言っていい。なぜなら「人権」システム下においては、まず真っ先に物資を施されるべきは、他に「ラベリング」されている「弱者達」であるからだ。
では、「他者から奪う」ことはどうか。
しかし、これこそが「人権」において明確に禁止されている行為に当たってしまうのである。
「公共の福祉」という概念がある。条文によれば、弱者男性にも「人権」は与えられているらしいのだが、残念なことに「みんなの迷惑にならないように」その人権を行使しなくてはならないという縛りが存在してしまっているようなのだ。
つまり日本国憲法は弱者男性にこう言っている。
「お前は普通の男性なんだから、誰にも頼らず、誰からも奪わず、自分の力だけで物資を獲得せよ」と。
だから、無理なんだって!
弱者男性は、自ら生み出せず、他者から施されず、他者から奪うことさえ許されない。人権がそう定めているから。
ただ無力な社会の底辺のまま、疎外されながら生きろと。
「人権」によって生み出され保持され続ける哀れな存在。それこそが弱者男性なのである。
お分かりいただけただろうか?