見出し画像

「スヤスヤ教」は多くの現代人が「宗教”にでも”頼らなきゃもう無理」と考えている証左である

現代人は、実はその多くが「合理的な」現代社会に限界を感じているのではないだろうか。僕が想定していたよりも、よっぽど既に。

僕がその確信を得るに至ったのは、我が愛するnetTV「ABEMA prime」←ちゅっちゅ♥ の特集で「スヤスヤ教」を始めとした「パロディ宗教」について取り上げていたのを見たからだ。

最近旧Twitter(現X)で話題になったという「ちゃんと寝ろ」ということを教義としている「スヤスヤ教」が、「断る口実としての"宗教上の理由”で使うためだけの宗教」として存在する「パロディ宗教」として人々に受け入れられ、多くの入信者(=フォロワー数:本記事執筆時点で9.4万人)がいるということだった。

その他にも似たように「宗教上の理由を使って困りごとを突破するための宗教」である「MtoP教団」や、2005年から登場している古来からのパロディ宗教「空飛ぶスパゲッティ・モンスター協会」なども交えつつ、「パロディ宗教」についての是非を考えるというのが上記動画の内容となっていた。

さて、この「スヤスヤ教」についてどのように感じるだろうか?

「別にいいんじゃない?」と好意的に(半ば無関心に)受け入れるだろうか?

「くだらない」「勝手にやってろ」と投げやりに(半ば憤りを覚えつつ)拒絶するだろうか?

僕の姿勢はと言うと、当然そのどちらでも無い。

なぜならこの「スヤスヤ教」の在り方は、ABEMA primeでも取り上げられた「スパゲッティ・モンスター教」を始めとした過去のパロディ宗教とは、明らかに異質な物であると感じ、またそこから「現代人の宗教に対する後ろ向きな希望」を見出したからだ。

現代人は、かつて「馬鹿馬鹿しい物」「非合理的な物」として歴史に置き去りにしたはずの「宗教」を、今なぜだか顧みて、そしてなぜだか「おかしいけど魅力的」「必要だけど受け入れがたい」と、「羨望」と「忌避感」の間で揺れ動いているのではないだろうか――。

今回の記事では、僕が「スヤスヤ教」のどのような部分からそう感じたのか、過去のパロディ宗教とそれとが決定的に異なる点とは何なのかについて説明していき、現代人と宗教がこれから先どのようにして「習合」していくのかの展望について考察していく。

「宗教」を「ライフハック化」したもの

「スヤスヤ教」を始めとした「”宗教上の理由”として困難を避けるために使うだけの表面上の宗教」とは何かというと、つまり「宗教をライフハック化したもの」と言い直すことができるだろう。

「ライフハック」とは、日常を便利に・楽にしてくれるような役立つ発想や技術を指す言葉だが、「スヤスヤ教」とはまさしく「宗教」という複雑怪奇で難解なものから「日常で役立つ部分」だけを抽出し、矮小化し、とっつきやすくした物であり、そういった意味で多くの人にとって「これは便利だ」として受け入れられやすく整形された宗教であると言うこともできる。

それ故、「スヤスヤ教」は複雑な教義や戒律を持たない。歴史も無く、施設も無く、何なら「神」すら必要としない。(どうやらnote内で神話だったり簡易礼拝所なるページも作られているようだが、それらは本来不要な後付けでしかないだろう)

なぜなら「スヤスヤ教」の存在意義とは「生活の役に立つ」という「ライフハック」としての側面”のみ”であるのであって、「スヤスヤ教」の信者は自らが信仰する宗教が「役に立てば」それでいいのであって、そこに宗教としての「深み」であるとか、信仰することによる自らの「価値観変化」だとかにはまるで関心がない。

ここまでの内容を踏まえると、やはり「スヤスヤ教」とはただの「パロディ宗教」でしかなく、既存の伝統的・カルト的宗教とは何ら関連性が見られないように思える。

しかし、「スヤスヤ教」の最も異端たる点はその「教義」にこそある。

「ちゃんと寝ろ」

「睡眠時間を増やせ」

スヤスヤ教~あらゆる面倒事を「宗教上の理由」で断る生活宗教

https://note.com/minerva_owl/n/nf58e9c59b1e9?magazine_key=m4e707d5cd930

なぜ「スヤスヤ教」はこの2文を教義に据えているのか? 考えて見れば見るほど、これが異常事態であることが分かるはずだ。

これはつまり

”ちゃんと寝る””睡眠時間を増やす”ということが現代において困難であること

を示している。

更にはそれが「宗教に入る」なんてことでもしなければ解決できないと感じている人が大勢いることもまた示唆していると僕は考えているのだ。

だってそうだろう。「ちゃんと寝る」ことも「睡眠時間を増やす」ことも、本来自分の意思でいくらだって実現可能なことであるはずなのだ。

なのに、世に「スヤスヤ教」などという物が現に誕生して、「ちゃんと寝ろ」などと言う教義を持ち出して、それを理由にしなくてはちゃんと寝ることすらできない(と感じている)人がたくさんいる社会……これが異常でなくて何だというのか。

宗教に入信する理由は人それぞれだが、その多くには「救いを求めて」という部分があるだろう。歴史的に人は、自分だけではどうしようもなく解決不能で理不尽な困難に直面した時、その解決先を宗教に求めてきた。伝統的宗教でも、カルト宗教でもそれは違わない。

では、自分だけでは「ちゃんと寝る」ことが困難で、その解決方法を「スヤスヤ教」にもとめて入信する人々に、果たしてこれまでの宗教との違いはあるのだろうか?

意識的であれ無意識的であれ、現代人の多くが「合理的で、自己責任・自己解決が原則の現代社会」に限界を感じ、「これもう、宗教”にでも”入らない限り無理じゃね?」と確信してしまっている。

「スヤスヤ教」が生まれ、多くの人に支持されている現状は、つまりそういうことを示しているに他ならないのではないだろうか。

過去のパロディ宗教との明確な違い

ABEMA pime←ちゅっちゅ♥の特集内では、過去の「パロディ宗教」の例として「空飛ぶスパゲッティ・モンスター協会」を取り上げていたが、僕はそれと「スヤスヤ教」とでは根本的に異質であり、何なら同じ「パロディ宗教」として括ることすら誤りであるとさえ考えている。

その事由を端的に示すのであれば、
「空飛ぶスパゲッティ・モンスター協会」とは「宗教皮肉」であり、「スヤスヤ教」は「現代社会皮肉」である
ということだ。

「空飛ぶスパゲッティ・モンスター協会」についてはかなり複雑な背景があり、その中身もそこそこの煩雑さであるため詳しくは触れないが、端的に言ってしまえば「スパモン教」とは「キリスト教の神」を「スパゲッティ・モンスター」に置き換えても何も問題は無いことを示し皮肉っているまさしく「パロディ宗教」なのである。

つまり「スパモン教」の攻撃相手とは「キリスト教」ないしは「キリスト教を絶対の教えとして仰ぐ盲目的信者」なのである。

では「スヤスヤ教」はどうだろうか。

実は、「スヤスヤ教」は全く「既存の宗教」を攻撃してはいない。もちろん「宗教としての体裁」を成すために既存宗教からもじっているような部分が無いわけではないが、それはあくまで「参考引用」程度であって、少なくとも僕目線では「既存宗教を皮肉って攻撃している」ような印象は受けない。

(たまに「スヤスヤ教」に関して「ちゃんとした宗教を馬鹿にしている!」との憤りのコメントが見られるが、どの部分が馬鹿にしていると感じるのかが僕的には謎である。推測するに、その人の「宗教とはこうあるべき」という固定観念が強くあって、それにそぐわない「スヤスヤ教」の在り方に憤りを覚えているのだと思うが、それは歴史的に頻発してきた「宗教戦争」の構図と何か違いがあるだろうか? であれば、「スヤスヤ教」とはやはり「ちゃんとした宗教」なのである)

そう言った意味で、僕は「スヤスヤ教」をあまり「パロディ宗教」だとは思えない。だって「パロディ元」が見当たらないのだから、「スヤスヤ教」は「完全なオリジナル宗教」と言って差し支えないだろう。

それでも「スヤスヤ教」を「パロディ」だというのであれば、それは「”ちゃんと寝る”ことさえできない現代社会のパロディ」とでも言うべきであって、「スヤスヤ教」は「現代社会皮肉」であるという点で過去の「パロディ宗教」とは全く異質だと言い切れる部分なのである。

現代人は宗教を「受け入れやすい形」で再構成し、取り込んでいくだろう

僕が他に知っている「パロディ宗教」に「恒心教」があるが(詳細は省く。気になる方はググってクレメンス)、そのあまりにトンチキな内容・社会的有意義性の皆無さ等々から、「恒心教」が発足したと思われる2012年~2013年にはまだまだ「宗教とは馬鹿馬鹿しい物、意味不明な物」という認識が主流であったことがうかがえるように思う。

それが、現代ではこれほどまでにシンプルで、有意義で、大衆に受け入れられやすい物が同じ「パロディ宗教」というジャンルで誕生すると言うのだから(誕生の背景は全く異なるが)、これはもう明らかに現代人の「宗教」に対する姿勢が変化してきていると言わざるを得ないのではないか。

現代人は宗教を求めてきているのだ。

もっと解像度を上げて表記するならば、「合理化され過ぎて、夢も希望もない、自己責任・自己解決でどうにもならない現代社会」を打破してくれるような「非合理的・超越的な何か」を求めている。

そして、現実的に見ても歴史的に見ても、そこにすっぽりと当てはまるのはやはり「宗教」こそが第一候補であることは間違いないだろう。

しかし、現代人の「宗教忌避」もまた根深いものがある。

ここまで合理化され、科学的知見に隅々まで侵され、客観的解釈・論理的認識こそが絶対正義とされる社会で育った私たちが、その真反対に位置する「宗教」をただ「必要だから」という理由だけで受け入れるというのは困難を極めるだろう。

ではどうなるのか。恐らくは「現代人」と「宗教」それぞれの立場からの「歩み寄り」が少しずつ行われていくのではないかと僕は考える。

「宗教」の側は、「社会的実益」を推し出し、かつ「教義・戒律」というものをもっと「簡略化」及び「合理化」していくのではないだろうか。「スヤスヤ教」がちょうどそうであるように

「現代人」の側は、「神」「真理」「彼岸」といったあまりにも宗教的すぎる物に関しては目をつむりつつ「うんうん、そうかもね。あるかもね」ぐらいに保留しておいて、宗教が持つ「実益」に着目してそれらを認めていくように変化していくのではないだろうか。「スヤスヤ教入信者」がちょうどそうであるように。

その先にある物が、宗教に汚染され切って堕落した中世ヨーロッパのような歴史の繰り返しになるのか、それともこれまでとは全く違った、両者の良いとこどりをした「習合」的な時代が始まるのか。

それは僕にも全く予想することができない。

いいなと思ったら応援しよう!