鍛冶をたずねて三千里 (10) 銘は変われど 受け継ぐ~齊藤さんと淡中さん、そして〜
削ろう会川越大会の熱さ冷ましに都心の宿で一晩を過ごした。翌日そこからたずねる先の西東京市に車を走らす。東京都庁の高層ビル街を背に新宿の交差点を曲がるとカーナビは中野の地であることを告げてくる。そわそわザワザワと気持ちが落ち着かなくなる。約束の時間を気にしつつ、ちょっと側までとその感傷の発する場所に近づく。結局、車を道端に投げ置きそこまで走った。市弘さんの細工場は静かにそのまま今もあった。玄関前で頭を下げて車に戻る。
西東京市に来るともう超高層ビルの影はない、入り組んだ住宅地の中に株式会社小信はあった。彫刻鑿と彫刻刀を主に造る。鑢掛けをしていた親方の齊藤さんが迎えてくれた。奥では淡中さんが研ぎをしていた。20坪ほどの細工場、グラインダーレースが4台、仕上げのためのスリ台が2台、とても小ぶりなスプリングハンマー、火床は鍛造用の炉と焼入れ用の炉が並ぶ。その後ろに手研ぎの研ぎ場と水研機。
齊藤和芳さんは小平市小川出身、昭和23年生まれ63歳。大工鑿鍛冶の父・齊藤光三氏は国分寺の鈴木さんで修業した後に独立した。特に銘は持たず問屋4軒の仕事をした。齊藤さんは小学生の時から下仕事を手伝わされた。父は夕方5時には仕事を上がる。父が明日のためにこしらえた2丁分の鋼を半分に折るのも仕事だった。タガネが入った冷えた鋼を釘で橋渡しにして叩いて割る、気持ちのいい高い音を今でも覚えている。風呂焚きも役目だった、さっさと終わらせ友達とベーゴマ遊びをしたかった。湯を早く沸かそうと燃料のコークスをてんこ盛りにし、熱すぎると叱られた。しかし、他の子どもとは違う利もあった、ベーゴマをグラインダーで加工してよく回るようにすることも出来た。
東京の鑿鍛冶組合で皆が集まるときは楽しみだった、茶菓子がもらえるからである。市弘さんこと山崎さんもこの会合に来ていた。今思えば中野に訪ねていけば良かった。彫刻道具の鍛冶屋には組合がなかったため横のつながりがなく、小信以外の仕事ぶりを齊藤さんは知らない。
父は49歳で亡くなった。齊藤さんは18歳の時に実家から駅2つの小信へ住み込みで弟子入りすることになる。入門の時、来なくていいと言ったが母が布団を持ってついて来た。幼い時から家業の細工場に入り職人の中で育っていたので職人たちとの仕事も住み込みも何の違和感なく入れた。しかし1日目、目が覚めたのは昼過ぎ!寝床は細工場の2階、下でどかどかやっているのに熟睡していた。それでも親方はちっとも怒らず「もっと寝ていいのに」なんて言ってくれる人だった。怒らない人であった、叱られた覚えがない。
小信の歴史は明治初期に宮大工専門で道具を造っていた滝口信吉氏に遡る。当時は、『信吉』『義宗』(ぎむね)という銘を使った。その次に息子・六之助氏が『小信』の銘を使った。齊藤さんの親方となる滝口清氏は昭和4年生まれ、六之助氏の長男。『小信』となって二代目となる。
修業は炭こわしを3年、コークス洗いもやった、真っ黒になった。配達も浅草の研屋に100本ほどをバイクで運んだ。少しずつ仕事を覚え、コミ擦り、裏造り、巾きめなど成形をかれこれ10年やった。親方は教えるということをしない、齊藤さんは真似から始めた。見て覚えたというより、耳で覚えた。2人それぞれのスリ台に座って鑢で鑿を成形する、親方と同じ音が出せるよう、そして同じリズムでできるように努めた。あとは日々の仕事を親方はチェックしてくれるだけである。
最盛期は今から30年前くらいのバブルのころか、木彫のブームの時は1軒のお得意さんから彫刻刀1万本もの注文があった。当時は職人も6人いた。
6年前に親方が亡くなった、清師匠との45年の師弟関係であった。会社は初代小信のおかみさんから娘さんに引き継がれ、親方をやってほしいと頼まれた、半年やって利益が出なければやめる約束で引き受けた。そしてその後に残念で無念なことに『小信』の刻印は外部に持ち出されてしまった。会社名は株式会社小信であるが、それからは『左小信』の刻印を打つ。
鋼は主に青紙2号、他には炭素鋼のスウェーデンアッサッブやボーラー、古い60年くらい前の白紙1号も使う。鍛接・火造りはコークス炉。鍛接剤は市販のものと自家製のものを使う。
工程は彫刻刀・小道具・鑿と大まかにわかれる。彫刻刀は板ものと呼ぶ。平だけでなく、内丸・外丸・三角・その上に幅も種類が多いが全てはじめは同じ、一寸六分巾の鋼を極軟鋼に鍛接してまずは板を造る。それを注文の巾寸法に切断する。丸や三角は型を当て淡中さんが向こう鎚で打つ。このオスメスの型も大切な財産。
なましは使っていたワラ灰がこのあたりでは手に入らなくなり今は炭粉を使う。
成形はグラインダーで荒下ろしするが、使いすぎない。減らしすぎると後の鑢掛けで深いキズに苦労するからだ。
スリ台にあぐらで座る。鑿をクワエで挟みそれを両足の指先でつかみ回しながらセンと鑢を使って形をつくる。コミは小信の伝統で太い、見えない所に価値があると信じている。
鑢も平・角・楕円といろいろ使う。大工鑿と彫刻鑿では首の入りが違い楕円鑢のコバの丸みも違うものを使う、だがこれが今は手に入らない。鎬面を仕上げる鑢だけは自分で目切して造る。それと取って置きの鑢がある、もう50年以上前に父が造った手切りの細目鑢、それは特別な仕事の時だけ使う。
グラインダーとバフで仕上げれば今の10倍以上の仕事が出来るかもしれないが、鑢仕上げにこだわる。造った道具が長年使われ続け、年代を重ねた良い色肌になることを思い鑢を使う。
焼入れはいったん仕事を終え歩いて2分の自宅で夕食をとってから夜に一人で行う。焼入れの燃料は松炭、鑿の時と小さな彫刻刀の時では炭の大きさを変える。水槽はドラム缶、古水を使う。焼戻しは油もどし、品によってはカラ焼き(炭火のあぶりもどし)もする。
焼入れ焼戻しが終わると、ここからは淡中さんの担当。水研機で荒下ろしした後はすべて手研ぎで仕上げる。1000番のナニワ人造砥石、仕上げは天然砥石。丸も三角も全て平らな砥石で研ぐ。
淡中潤一さんは東京出身、1956年生まれ55歳。大学で食品衛生を学びハム会社に入る。27か28歳の時、思いあって職業訓練校に通い木工を学ぶ。卒業し、たまたま紹介された小信さんを訪ねそのまま弟子入りした。そして今日まで研ぎ一筋である。鑿の柄入れ、彫刻刀の柄入れも全て行う、丸も三角も溝を掘りきちんと合わせて作る。彫刻刀の柄は故・関野光雲氏から木曾檜でと注文があり今も使い続ける。
淡中さんは品質管理者でもあるようだ。熱処理を研ぎでチェックし、火造りと焼入れを担当する齊藤さんとやり取りしながら最後の仕上げを行う。淡中さんは齊藤さんの大切なパートナーである。
淡中さんが年金をもらえる歳まで齊藤さんは頑張ろうと思っていた。しかし昨年暮れは椎間板ヘルニアで入院しもう続けられないかとも覚悟した。齊藤さんの大柄な体格は、スリ台での前かがみの姿勢が腰に負担をかけた。今は何とか療養して復帰した。
初代から続いた小信の姿は彫刻道具の基軸であろう。とある北陸の長老鍛冶は手本であり目標と言っていた。しかし今や東京の鑿鍛冶は風前の灯火である。大工鑿でなく彫刻鑿であっても先代からの仕事はまぎれもなく東京の鑿の姿カタチ。2人で受け継いた仕事は繋ぎ止められた。
専門の彫刻道具ばかりだけでなく様々な注文も舞い込む。今試作中の漆掻き道具3点セットも見せてもらった。他にも削ろう会のみんなが喜ぶ試作品もあった、しかしこれは公表を断られてしまった、またいつの日か紹介しよう。
師匠が座ったスリ台は齊藤さんには小さすぎ、自分用に大きく作ったものに座る。背中の後ろ、師匠が座ったスリ台で鑢をかける弟子がこの春から通ってくる。Nさんである、女性なので歳は聞かない。もしかするとこうした扱いも彼女にとって不満かもしれない。
与板で5年修行した後、東京の職業訓練校に2年余り通った。どうしても鍛冶屋になりたい思いで齊藤さんを訪ねた。もちろん1回や2回ではOKはもらえず断られる。そのくらいであきらめるようだと鍛冶屋にはなれない。いろいろと条件を提示して晴れて合格した。残念なことに取材した日は午後からのバイトで不在であった。今や弟子を育てるには齊藤さんが師匠から教わった方法では時間が足りそうにない。彫刻道具はとにかく種類が多い、もうチャンスがあればどんどん試さす、失敗すること覚悟の上である。
道路に面した窓際のスリ台に齊藤さんが座り、一番後ろに座った淡中さんが研ぎで守る。そのあいだでNさんが懸命に鑢で擦る姿が見えるようだ。齊藤さんは背中で音を聞きつつ、その仕事を見守る。
『左小信』と銘は変われど、株式会社小信は『小信』である。まぎれもなく三代目。血縁があろうとなかろうと、そこに座るものこそ、それを受け継ぐべきである。齊藤さんこそ、それに相応しい。
2011年10月17日 石社修一
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