鍛治をたずねて三千里 (3) 薄削りの究極を追う 山本文義氏 動かない台
削ろう会会報53号 寄稿
かれこれ35年ほど前のことである。四国愛媛の宇和島湾、とある鉋鍛冶が釣りの旅に来ていた。それを聞きつけたひとりの大工が宿を探しあてて訪ねて行った。大工はその縁で二枚の鉋を手に入れた。がしかし、思ったほど切れなかった。
その大工は山本文義さん、宇和島市吉田の入り江から少し入った緩やかな坂に続くみかん畑の側に細工場はある。削ろう会は小樽大会(2003年9月開催)を初めて見学し、大会への参加は厚木大会(2004年4月開催)からだった。それから薄削りに夢中になった、やるからにはとことんやる。
それまで仕事で使い込んだ中の1番切れる鉋で薄削りに挑んだがどうも上手くいかない。研ぎを考え直し、台の仕立てを変え、台を自身で掘った。もっと薄く〜もっと薄く〜もっと薄く〜と限界を追った。そしてより薄くより長い、端からハシまで均一でしっかりとしたテープ状の鉋屑を出すことを目指した。そんな状態の屑は5ミクロンが限界だと削ろう会の重鎮でもある尾上さんの意見でさらに火がついた。3を2に、そして1ミクロンの大台を狙った。それを目指すためにあらゆる手を尽くし様々な新しい技法も構築してきた。
薄削りには7つの条件があるという、その中で先ずはひとつの大きな条件である台について今回は取材してきた。
山本さんの言い回しはいつも極端である、寸八鉋を何と小ガンナと呼ぶのである。その薄削りと合わせてのめり込んだのがそれより大きな大鉋である。大鉋に挑んだ当初の台は無垢であった。5~6年前、愛媛の仲間と集まり大鉋を引いた。大雨洪水警報の土砂降りの中、きちんとクズを出したのは若い久保さんだけだった。久保さんのその大鉋は東京の土田刃物店で2時間粘ってやっと手に入れた碓氷さんの五寸鉋で、その台にはステンレスのボルトが仕込んであった。クズが出るまではそんなの野暮だとからかっていた4人の仲間は、次に集まると皆がみんな台にボルトを入れてきた。そこからが動かない台への道のりの始まりらしい。そして無垢の台へのボルト入りから、いつしか集成材の台に置き換わっていった。五寸鉋で削れるようになると鉋刃の巾寸法はどんどん広がって、七寸から八寸へ、ついには一尺へと踏み込む。恐らくは一尺鉋で削りクズを出すことは人類史上初では無いのだろうか?まさに未知への挑戦となった。
いかに繊細に研ぎ、なじみを完全に密着させ台下を調整した所で、いざ削り始めたときに台がわずかでも動けば尺鉋になると薄削りどころかもはや鉋屑さえ出ない。寸八ならば台直しと研ぎで調整すれば多少はなんとかなっても、鉋刃と台のなじみの密着性はそこなわれなじみの接地面積は減っているのである。刃先の安定性は低下し、こうなると寸八であっても限界の削りには遠ざかる。ならば動かぬ台をと狙ったものが集成材の台である。そこまで行き着く過程を以下の山本さんの文に読み取れる。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」
四年ほど前、尺鉋を手がけた当座、大きく動く台の狂いの対処に、‘人は自然と共にある,古今和歌集のこの和歌が有機素材である鉋台の扱いには言いえて妙に思えた。木と共に生きてきた腕に多少のおぼえもあって、日々の移ろいを体感出きる感性こそが台を制御しうる、と本気で考えた。
本格的に始める前の高揚感とスマートさに、進む方向は決まった!(かに見えた?)
雨の日は天井近くに置き、晴天の日には上げ下げして床に、裏にし表にし。鉋との一体感で試行錯誤に終始したが、四十余年の(造詣が深いはずの)木の知識の方は全然役に立たず馬脚を現した。そして、その微妙な狂いは、依然何も手を加えないのと大差なかった。
時間と手間を惜しまず考えつくありとあらゆる方法を試していくうちに、解決方法はまさに人知を越えたところにあるように思えた。地震学者がなまずに助けを乞うように、科学的非科学的南無阿弥陀仏の様々な挑戦をした結果、いつしか“風流”から遠ざかり始めた。
そして、暑ければ氷を抱き、寒ければ火を焚く、西洋的な思考体系に移っていった。
‘自然は征服できる’ 私の五感は、気圧計・湿度計・温度計にとって代わった。樫の木だけだった台は、ステンレス・ウレタンやエポキシ樹脂・セラミックに置きかわり、だんだん私は錬金術師のようになってきた。かくして部材の数は40個ほどになり、台の重さも20キロになった。まさにターミネーターだ。
台に当たり、鍛冶屋に当たり、今にして思えばよくもまあこの形で残れたことよ、何度叩き割られる寸前までいったことやら。
この方法は、数学の定理のように動かしがたいものとは思っていない。おそらく私も、1年後の台作りに、同じことはやっていないだろう。まだまだ進化途上の試作段階にあるが、一方法としてこれから大鉋を始めようとしている人の参考になれば幸いに思う。
山本文義 2008年11月
竹中大工道具館 実演・講習「大鉋で削りを極める」レジメより引用
紙面の都合で図面を載せるスペースは残念ながらないが、この文中にあるように部材の数は尺鉋の台で40個、寸八などでも36個と複雑で大変手間のかかるものである。しかしその結果は明確で、削ろう会の大会に参加してもその会場では台直し鉋は使わない、そもそも持っていく必要が無くなった。せいぜいカッターナイフの刃を使ったスクレッパーでの微調整をするだけなのである。
そしてこれまでの常識が覆ってくる。削るごとの台直しで台が減り、刃口が広がってくるはずだったものが逆になったというのだ。なんせ台直しで削らないので台下はほとんど減らない、一方で鉋刃は研いで減るばかり、むしろ使えば使うほど刃口に寄ってくる。そして狭くなりすぎた刃口を切らなければならないほどになる。尺鉋も包口で鉋の鎬さえもしっかり包口の内側面に密着している(ここは大きなヒントがある)そして台が減らないので包口も減らずに残る。
言わば大鉋の薄削りのために開発されたこの台だが、小鉋(※寸八などのこと)も極薄削りのため順次掘り替えている。
大鉋や薄削りを趣味だと言い切る。
「何で仕事の役にも立たないものにお金と時間を注ぎ込むのか?」と言われると返事も面倒くさい、「おまんらプロでも無いのにゴルフ道具やら車に金掛けるのと同じよ、趣味とはそうゆうものよ」と。
しかし極限を目指したこの台を仕事に使えば素晴らしいのではと誰もが考えるであろう。永い大工道具の歴史の中、平鉋は成熟したものかとも思ったが、まだまだ進化の余地があることを山本さんのこの台は証明してくれそうだ。
ではこの集成材の台作りに挑戦しようと思う方のために、寸八用の構造を簡単に説明しよう。
1 芯材は樫で2層もしくは2層でそれぞれ3枚接ぎあわせ。
2 芯材の中に5本の鋼材が入る。12ミリ角のステンレス鋼材もしくは中空材。ただし芯材と鋼材は接着していない。
3 芯材の上下面、左右コバにステンレスメッシュもしくはステンレスパンチングメタルで囲む。
4 以上を樫の表面材で覆う。各工程、エポキシ樹脂系接着剤を使い、クランプで締め付ける。
5 ここからやっと台堀。
話しははじめに戻って、かれこれ35年ほど前に宇和島湾に釣りに来ていた鉋鍛治は播州三木の千代鶴貞秀さん。『菊刀』の刻印のあるその鉋は手に入れて20年ほどは荒鉋で使うのみであった、どうしても切らしきれなかった。それがいまや山本さんにとっての4番バッター、1ミクロンの大台に挑める鉋となった。その変化の理由は明確でないが、それは台であり研ぎであり様々な要因があると言う。
山本さん曰く「過去数百年にわたり、幾多の名工の自信作を木匠衆の未熟さゆえに使いきれず道具箱の隅で錆び付かせてしまった。そうした使い手大工の責任を、鍛冶屋に転嫁した歴史が鉋の履歴である。このような錯誤の歴史が続き、日進月歩の時勢に即した技術革新がなされないまま今日に至り、やがては家大工の世界から消えようとしている」と手厳しい。
研ぎの独自の方法についてはまたの機会に紹介しよう、本人自ら書いてくれれば良いのだがなかなかうんと言ってくれない。
ちなみに「研ぎに大切なのは2つの愛 intelligenceとimagination」と、なんとも洒落ている。
削ろう会会報53号 寄稿
2010年1月26日初校 2024年11月10日手直し
写真と文 石社修一
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