観音裏の迷宮 第26話 昭和20年の浅草・2
風の音でも建物を壊すメリメリガシャーンという音でもない、何か高い音が近くでした。
平田にはその音が何か、よく聞こえなかった。
ただ胃液を吐いてのたうち回る自分の咳の音や激しい特徴的な呼吸音が激しく響いていた。
やがてぱたぱたと小さな足音と、どたどたというどた靴の音が飛び込んで来た。
「先生、こちらです」
若い娘がさけぶ。
「ああ、これは喘息の発作だな。かなり悪いが大丈夫だろう」
丸眼鏡をかけた医師はそう言うと、
「こいつおさえとけ」
と娘に言った。
無茶だと考える余裕も平田にはなかったが、女の小さな手は意外にしっかりと力を込め、急所を押さえつけて地面に張り付けた。
「その調子だ。君、これを吸い込め」
そう言って医師は火の付いたキセルを平田の口に差し込んだ。
咳とけいれんで固く締まった喉に煙が入り込み、暫くするとスーッと喉の力が取れ、呼吸が出来るようになった。
「すごい、先生」
「なに、こいつもこれを知ってるはずだが、配給が滞って切らしたんだろうよ」
図星だ。
喘息の特効薬、印度大麻の煙草はここしばらく配られず、平田は持たずに生活せざるを得なかったのだ。
大麻は江戸の昔からその神経作用で喘息発作時の気道収縮を緩和し、呼吸を楽にすることで知られていた。
特効薬「大麻煙草」が禁止になったのは戦後進駐軍の命令である。
平田はぐったりと地面に横たわった。大麻を吸うといつも頭がボーッして、気分も楽になる。
「あんたは健康だから大麻の煙は毒だ。離れていなさい。こいつはもう大丈夫だからおっつけ自分で立って帰るだろう。な、そうだな君」
そう言ってぐったりとした平田の体を抱え、引き起こして座らせた。
「確かにこの体じゃ軍隊も要らないというだろう。骨と皮だ」
君、俺は帰るからどうにかして大麻を手に入れろ。
医師は言うだけ言って帰って行った。
騒ぎに気付いたご近所が窓を開け、彼らを見ては口々にさけび出したので、空き家街の一角の、路地の奥にへたり込んだ平田は、ここを立ら去らねばと立ち上がった。
その足は大麻の筋肉弛緩作用のせいかぐにゃぐにゃして、生まれたての動物のようだ。
「手伝います」
娘が行って、すっと平田の脇を抱え、引きずって歩きだした。
体にあたる娘の腕や腰、胸元の感触から、中肉より痩せた小柄な娘と推察できた。
彼は情けなく、砂浜を手繰り寄せられる大きな釣魚のように、女に引きずられて歩いた。
「こっち、橋場の方でしたよね」
娘は平田のために大通りを避け、路地を選んで歩きながら言った。
人目、とりわけ女と一緒に歩くとは何事かと怒鳴る防空隊長の目を避けるためだ。
「何で知ってるんだ?」
平田は初めて娘の顔を見た。
埃を含んだ北風に晒されて、頬もひっつめた髪も砂っぽく乾いてはいたが、鼻筋の通った整った顔だ。
数年前まで普通に街で見かけたような、洋装を着ればとても美しくなるだろう。
「おじさんの工場の隣の、火薬工場で働いているんで」
おじさんじゃねえ。
年寄り臭く咳こんだり、兵隊に行かないで街をぶらぶら歩いていたりしているが、まだ25だ。
「ここでいい」
平田はむっとした顔で娘から離れた。
もう咳も収まり、大麻の副作用も消えてしゃんと歩ける。
「大丈夫ですか?お家まで」
「いらない」
第一若い女が男の一人暮らしの家にのこのこついてくるなんて、余程の世間知らずかふしだら女だ。
この子は前者の方だろうが。
そう思いながら彼は軽く一礼した。
「ひらたさん、というんですよね」
娘は突然、鋭い声で呼びかけた。
彼はぎょっとしたが、国民服の胸に緊急時用に名前や住所を墨で書いた白い布を縫い着けてあるから、当たり前と言えば当たり前だ。
「そうだ。それがどうした」
「いえ、何でもありません」
娘はもんぺの尻を左右に振りながら、タタッと大通りを走って行った。
おかしな娘だ、ありがたいけど。
彼は汚れた服のまま長屋に向かって歩き出した。
内科医の名前で工場の平田宛に包みが届けられたのは数日後のことだった。
薬が手に入ったのだろうか。家に帰って包みを開けてみると、厳重に油紙でぐるぐる巻きにされた、大麻の葉が入っていた。
油紙の隅には
『少しですが手に入ったので。昭島和子』
「昭島くん、さっきは薬をありがとう。申しわけない」
「いいえ、昔の知り合いが使っていたのを思い出して…探したらあったので」
隣り合った工場の、終業時間。
町内共同井戸でぼろぼろの雑巾を絞りながら、平田は同じく水を汲みに来た昭子に話しかけた。
少しでも水道を使わないように、掃除や仕事用にはまだ健在の井戸を使う事が奨励されていた。
「今度配給の豆が来たら、分けてやるよ。お礼だ。俺はほとんど食べないから」