観音裏の迷宮 第29話 昭和20年3月9日

 翌、昭和20年3月9日。
 路地や四つ辻で渦を巻くほどの強烈な木枯らしが、早朝から吹き荒んでいた。
 浅草・花川戸の町工場は近くの中学生や女学生による建物疎開の音でにぎやかだった。
 いつもは始業より早く工場に来て、仕事の準備にかかる和子だが、その日はギリギリで他の女工たちに珍しがられた。
 どうしたのと同僚や先輩たちに聞かれても、気が抜けたような曖昧な笑顔で返す。

「何でもありません。昨日よく眠れなかったし早く目が覚めてしまったから」
「そうね。こう毎日のように警戒警報が出たら、夜も眠るどころじゃないわよね」

 和子はあくびを噛み殺しながら頷いた。

 彼女は一日中様子がおかしかった。
 ボーっとして仕事で失敗を重ね、上長や軍の監督官に大声でどやしつけられた。
 一度など、貴重な軍服用の生地を間違ったところで裁断し、監督の軍人に激しくビンタされた。
 いつもと違う和子に同僚は心配し休憩時間に尋ねたが、彼女は曖昧に微笑んで何でもないと答えるだけだった。

「隣の工場の女の子、随分怒られてたなあ」

 昼の休憩時間に、平田の先輩の中年の職工が話しかけてきた。

「女の子がですか?」
「隣は裁縫工場だろ?裏の井戸に水を汲みに行ったら、ぶん殴られて怒鳴られる音が聞こえたよ。ありゃ新兵以下の扱いだね」

 平田は思わず首をすくめた。自分達もへまをしたりもたもたしたりすれば上長からどやされるが、それは元々「仕事」としてやっているのだから当たり前だ。
 だが隣で働いている女学生たちはみな、動員学徒で駆り出されてきた少女たちである。

「昭島ぁ! 貴様まだたるんでおるのか!? 」

 また隣から監督官の大声とビンタ、小さな体が地面に倒れ込む音が聞こえ、平田と中年職工は顔を見合わせた。

「まだ子供みたいな女たち相手に、ひどいもんだ」

 自分の娘も兵器工場に動員されているという職工は、顔を曇らせた。
 その声に頷く平田の顔は、軽く青ざめていた。
 きっと昨日の自分のせいだ。
 自分が無邪気な少女に動揺を与えて、彼女はろくに眠れなかったに違いない。
 平田は腹を下したといってちょくちょく仕事場を離れ、便所に行きつつ隣の様子を窺い、作業用の水を汲みに来た和子を捕まえた。
 どこで誰が見ているかわからないと怯える彼女の顔は殴られて腫れ、鼻血をぬぐった跡がついていた。
 平田は頭の芯がかっとなったが、こらえた。

「すまん。昭島さん。俺が昨日あんなことしたから……」
「違います。びっくりはしたけど、でもこれは自分のせいだから」
「いや違う。今日仕事が終わったら、待っててくれ。俺も早く終わるように頑張るから」
「……なに?」
「心配ない。もう大丈夫だよ。失敗しないよ。落ち着いてやりなさい」

 うん、と和子はこっくり頷いて、仕事場の方に走って行った。

 終業時、隣の工場よりやや早めに仕事が終わった製靴工場で、平田は念入りに手を洗った。
 あまりに思いつめた表情をしていたので、同僚は不審そうに平田の顔を観た。
 時節柄、隣組や防火訓練の組以外には、人様の事に余り関わらぬ風潮になっていた。

 製靴工場から出ると、プンと自分に染みついた革の香りがする。
 今日もまた風が強く、工場から出る臭いを空に運んでいるらしい。
 隣り合った町工場の門を眺めていると中から数人ずつ連れ立って、またパラパラと一人で、仕事を終えた女たちが出てきた。
 昭島和子もまもなく出てきたが、新たに目の周りに青黒い痣を作り、青ざめひきつった顔をしている。
 隣には同僚の若い女性が寄り添うようについていた。

「昭島くん、一緒に来てくれ」
「え?」
「一緒に帰るんだよ」
「え、なんで?」
「飯を食うためだよ」

 余りにもせっかちな平田の調子に、和子はえ、え?と戸惑い尻込みをした。
 その間にも工場から出てきた女工たちは、不思議そうに三人の様子に足を止め、じろじろと見る。

「何やっているの、昭島さん。男の人とべたべたとしている場合じゃないでしょう、この非常時に」

 年配の、女工たちの指導者とみられる女性が前に出てきて一喝した。

「なぜいけないのですか?自分の婚約者と家に帰る事が」

 平田は怯える和子が不憫になり、思わず声を荒げた。
 和子は口を軽く開けたまま固まった。
 周囲の女たち、自分の工場から出てきた男達も固まった。
 何秒かが流れ、和子の傍らについていた少女が、ポスンと彼女の背中を叩いた。

「頑張れ。いってらっしゃい」

 和子は面食らい、友人と平田の顔を交互に見て、何か言おうと口を動かしたが、その言葉が出る前に平田の細い手が和子の腕をつかんだ。

「行こう」

 平田は短く宣言し、ずんずん速足で歩きだした。
 ああ、やってしまった。
 俺は何も考えず、この子の職場の前でやってしまった。
 でもいいや。
 今この瞬間から、俺たち二人は自由だ。少なくとも工場の外では手をつなぐにしても一緒に歩くにしても自由だ。
 平田は自分でも訳が分からないまま、何かをやり遂げたという満足感で、更に足取りが早くなった。
 健康な昭子が腕を引かれながら小走りになり、待ってくださいと懇願する有様だった。

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