映画感想:悪の教典① 合理性とは
昨日の日記でも書いた通り、映画「悪の教典」を視聴したので、感想を書く。ネタバレ注意。また、一般倫理とか固定概念を一度取っ払って考えてみたいと思うので、やや尖った思想になるかもしれない。
おおまかなストーリーは、一見「教師の鑑」である蓮実聖司(愛称:ハスミン)が自らの目的の達成(障害を取り除く)ために、最終的にはクラス全員を惨殺するという話。
公式サイトにもあるとおり、ハスミンはサイコパスという設定で、サイコパスといったら悪の教典と言っている人もネットでは見かける。
今回はサイコパスは進化した人類説(私が勝手に言っているだけ)を合理性一辺倒なところと共感性のなさに注目して、映画内のハスミンの行動シーンをクローズアップして極稀にサイコパスと言われる私が語りたいと思う。
まずは合理性の部分が強調されているなというシーン。学校の試験で学生達が携帯電話を使った集団カンニングを行っているのをどう防止しようかという、先生達の会議シーンでの一幕。
ハスミンはテストの間だけ妨害電波を出すことで、携帯を使えなくさせる提案をする。ただし、その方法は電波法に違反する可能性があるという。結局、「法令違反することはできない」という流れから、テスト中は携帯を回収するという対策になったようだ。
この時のハスミンの思考を推測する。
まず、ハスミンは集団カンニングを止めるという目的をもった。そして、その集団カンニングを成立させる一番の要因が携帯電話であると考えた(だから、電波妨害を考えた)。
まず、ここでストップ。この時点で合理性の片鱗が私には感じる。映画のシーンでもあったが、他の先生は「テスト中は携帯を使わないように注意する」という提案(要するに人が悪いという提案)をしていた。しかし、ハスミンはこう考えたはずだ「人という生き物はやるなと言われて素直に従うような生き物ではない。やりたいと思っても出来ないような対策を検討するべきだ(人ではなく物や環境が悪いという提案)。」
その検討した結果が電波妨害という少し極端な方法であるがゆえに、サイコパスとなるのかもしれないが、そこに至る過程はけして異常者のそれではない(と思う)。さらに、なぜ電波妨害という方法を提案したのかを劇中にセリフ等から以下のように推測してみる。
理由①:生徒や他の先生達の手間を取らせない
(ジャミング装置を作成&設置する人は手間を取るが、それ以外の人は何もする必要がない。さらに一度設置してしまえば半永久的に使用できる。)
理由②:生徒達に対策をするということを伝えなくて良い
(テスト中に携帯電話を使えないのが前提だから、妨害されても文句はでないはず。また、対策すると伝えることは先生達は生徒達を信用していないと伝えることと同義となるため、信頼関係が損なわれるのを回避できる。)
理由③:電波法に違反する恐れがあるとはいえ、コントロール可能である
(そもそもの電波法の目的(無線通信の混信や妨害を防ぎ、電波の効率的な利用を確保するための法律)を考えると、妨害範囲を学校の敷地内に限定すれば、電波法の目的には違反しない。)
下にいくほど倫理観的に拒否反応が出てくるかもしれないが、結果だけ見れば問題なく目的を達成できた(ハスミンは結局独断で妨害電波を出し、集団カンニングを防止した)。
実際にハスミンがどう考えていたのかは分からないが、こう考えると一周回ってハスミンが一番真剣に問題に対し向き合っており、かつ、自身のアイデアに対して責任感もあるように思えてくるのは私だけだろうか。
最初の先生たちの学生達に注意するという対策は先生達にとっては楽な対策である。注意するだけでよく、もしカンニングをした生徒がいたのであればその生徒が悪いと言えるのだから。しかし、ハスミンはそれを良しとはしなかった。
行動だけ見れば泥をかぶる(ルールを破る)のは自分だけで、他の人にはルール(カンニングしてはいけない、法令違反してはいけない)を破りたくても破らせないという手段を取ったようにも見える。
映画の中では(おそらく)生徒たちに注意するというアイデアと電波妨害するというアイデアの折衷案として、携帯電話を回収するというアイデアになったのであるが、学生たちはダミーの携帯を提出することで集団カンニングを行おうとした(妨害電波のせいで失敗したが)。
きっと、電波妨害しなければカンニングは防げなかったし、先生たちも対策したのにカンニングされるのは学生達が悪いといって責任を押し付けたであろうと思われる。
それと比べて、最初から人のせいではなく環境が悪いと考えたハスミンは寧ろ優しい人間のように思えてしまうのは私だけだろうか。
ここまで、ほぼほぼ推測(妄想)ではあるのだが、サイコパスの合理性を法令違反(殺人とか放火とか)に安易に結びつけるので異常者扱いされてしまうが、サイコパスの合理的に考える方法については見習うところが多いと考える。
もちろん合理性というのはある側面から見た場合においての合理性に過ぎないので、ハスミンのようなやり方が良いと言いたいわけではない。現代はとにかく様々なしがらみやルールが多く、合理的にやろうと思ってもどこかの側面で合理的ではないと判断できてしまう。ゆえに自分たちの真の目的はなんなのかどの面で合理的に判断するべきなのかを、一人ひとりが真剣に考えるのが良いのではないかとハスミンを見ていて思った次第である。
思ったより長くなったので、②につづく。
次回は共感性について着目しようと思う。