ISHIYA私観「平成ハードコア史」〜#13 シーンと観客の変化
2019年の今年、平成という時代に終止符が打たれた。
1989年から始まった平成だが、昭和からパンクシーンにどっぷりと浸かった俺は、昭和も終わりを迎える頃にDEATH SIDEというバンドでライブ活動やレコード発売が活発になって行った。
自身の活動を踏まえた上で考えてみると、平成という時代が人生のメインとなる活動時期だったと感じ、私観ではあるがその歴史を書き留めておこうと思い筆を取った。
これから連載をしていこうと思っているこのコラムでは、全くと言っていい「極私観」に基づくものであり、俯瞰の要素からはかけ離れているだろう。
しかし、平成のアンダーグラウンド・ハードコア・パンクシーンを体験し続けてきた俺の記憶に興味のある方であれば、興味深い話があるはずだ。
今まで世に出ていないこともたくさん出てくるはずだと思うし、こんな世界が世の中にはあるんだと、少しでも興味を持ってもらえれば、俺が人生を賭けてやってきたことも報われる。
売文を生業としているのでこのコラムに関しては有料とさせてもらうが、興味がある人は是非このコラムを購読してほしい。
今後このコラムを読んで、様々なバンドに親しみが湧く人間もいるだろう。しかし、自分が体験したことでもないことで、馴れ馴れしくバンドに知ったかぶりをして話しかけても自己責任なので気をつけることを忠告しておく。
昭和のハードコア・パンクの先輩たちがそうであったように、一旦中に入れば信じられないほどの優しさを見せてくれる日本のハードコア・パンクの人間たちだが、その壁は厚く高い場合があることを認識してほしい。
そうでなくては、このコラムを続けることができなくなるかもしれない。
「#13 シーンと観客の変化」
昭和の頃のハードコアシーンのライブハウスは、それはそれは恐ろしかった。毎回ライブハウスでは、必ずと言っていいほど観客の誰かが血祭りに上がっていたし、いつ自分がそうなるのかと思いながらライブハウスに行っていた。
日常暮らしている家庭や学校といった共同体で得られるものとは全く異なった世界がそこにはあった。
俺は高校生時代に東京のハードコアのGIGに行き始めたが、高校を辞めて頻繁にライブハウスに通いだした時期は、既に日本ハードコアシーン創世記から少し経った頃で、THE COMESが解散しLIP CREAMが活動を始め、THE TRASHのロックンロール色が強くなり、MASAMIさんがGHOULを始めた頃なので、観客もバンドも第二期ぐらいに入っていたのではないだろうか。俺はいつもTHE TRASHのGIGに行っていたので、THE TRASHの出演するGIGに必ずいる人間がいて、そいつらとは当然仲良くなり「また次のTRASHでな」と、ライブハウスが待ち合わせ場所だった。
俺は学校を辞め地元にアパートを借りてライブハウスに通い詰めたが、すぐにアパートを追い出され、ボストンバッグひとつで東京に出てきた。住む場所もなく金もなく仕事もない。そんなときに助けてくれたのはTHE TRASHのライブで仲良くなった仲間だった。家のない俺を実家に泊めてくれ、その後少しの間居候させてくれる部屋を見つけてくれたのも最初にライブハウスで仲良くなったその友人だった。
その後居候先にいられなくなり、原宿をあてもなく彷徨っていた時に「何やってんの?行くところ無いの?うち来なよ」と声をかけてくれたのがにら子供のミッキーで、それもライブハウスで知っている人間だった。ライブハウスが無かったら、ハードコアパンクが無かったら……。想像することすら恐ろしい状況になっていただろう。
30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!