ISHIYA私観「平成ハードコア史」第3章〜#20 KINの死とKATSUTAの鉄アレイ脱退
これまでは昭和から平成にかけての話や、全国ツアーでまわった各都市などについて触れてきたが、この第3章では平成中期以降についても触れていきたいと思う。私観であるので、第2章では自分のバンドであるDEATH SIDEについて触れてきたが、平成初期にはDEATH SIDEを解散し、FORWARDという新しいバンドを結成し現在に至っている。
ちょうどこの時期になると、第三世代とも取れる世代のバンドの台頭も著しく、日本のハードコアも多様化していく時代になっている。海外との交流も盛んになっていき、同世代からそれ以降のバンドたちが次々に海外進出を果たしていくこととなる。
自身も様々な海外をバンド活動で経験し始めたのもこの時期であるため、世界の中での日本のハードコアというものにも触れながら、平成に起きた様々なできごとなどを書き進めたいと思っている。
売文稼業なので有料とさせていただくが、連載の励みにもなるので興味のある方は、この第3章も購入していただけると幸いだ。
第1章、2章と同様、自分が体験したことでもないことで、馴れ馴れしくバンドに知ったかぶりをして話しかけても自己責任なので気をつけることを忠告しておく。
昭和のハードコア・パンクの先輩たちがそうであったように、一旦中に入れば信じられないほどの優しさを見せてくれる日本のハードコア・パンクの人間たちだが、その壁は厚く高い場合があることを認識してほしい。そうでなくては、このコラムを続けることができなくなるかもしれない。
「#20 KINの死とKATSUTAの鉄アレイ脱退」
消毒GIG周辺バンドが海外へ進出した1990年代に続き、平成12年である2000年と前後するような形で、BURNING SPIRITS周辺バンドも海外進出を果たしたことは、前回までのコラムで触れた。
鉄アレイ、PAINTBOX、FORWARD が平成16年の2004年までに海外進出を果たしたが、鉄アレイが海外進出を果たした後、2000年に入ると共に東京ハードコア近辺には激震が続いた。
平成13年である2001年に、日本のハードコアにとって最重要人物である人間の悲報が訪れた。
G.I.S.MのギターであるRANDY内田さんの死去である。
日本ハードコアを作り出した重要人物であり、世界へ日本のハードコアの素晴らしさを伝えた第一人者であるRANDY内田さんの死去により、日本、いや世界のハードコア界は衝撃と共に深い悲しみに包まれた。葬儀にはRANDY内田さんとの別れを惜しむたくさんの人間が訪れ、永遠の別れという悲しみの中、RANDY内田さんは荼毘に付された。
俺も葬儀には行かせてもらったが、周囲の悲しみ、RANDY内田さんと同世代である一時代を築いた先輩たちは言うまでもないが、特に影響をモロに受けた俺たちの世代の悲しみにもかなり深いものがあった。
中でもかなりの影響を受け、崇拝とまではいかなくとも尊敬と影響の大きかったCHELSEAの葬儀のときの悲しみは、当時仲が悪く一言も喋らなかった俺でも「大丈夫か?」と心配になるほど、ちょっとおかしなことにもなっていた。これは完全なる予想だが、この頃を機にCHELSEAの奇行に拍車がかかっていったのではないかとも思う。
そしてもう1人、鉄アレイのベーシストであったKATSUTAの悲しみも、表にはあまり出さないが深いものであると周囲は感じていた。
そして平成14年である2002年になると、BURNING SPIRITS周辺には、さらに激動の波が押し寄せてきたのだった。
30年以上に渡るバンド活動とモヒカンの髪型も今年で35年目。音楽での表現以外に、日本や海外、様々な場所での演奏経験や、10代から社会をドロップアウトした視点の文章を雑誌やWEBで執筆中。興味があれば是非サポートを!