石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(十九)
(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)
「ある人、主人の日頃の行いを問う(三)」
(ある人)
「とにかく今の親方は、貧乏人が好きかと思えば、よく金銀を集め、その金銀で衣服でもこしらえ、美食でも好むかと思えば、日々の食事は飯と汁と漬物、三日、十五日、二十八日はカツオのなますに漬物、正月のお節はカツオのなますにイワシの焼物、大根汁に漬物、祭りのときは瓜なますにシイラの船場汁、ナスの汁に漬物。不意の客があれば茶漬けに漬物、だいたいこのようなものである。そのため、寄り集まる親類の者も、自分の家の食事とは大いに違うので、箸を取ったらすぐ食べ終わってしまい、お節や神事も寂しく、陰口を聞けば、餓鬼だのけちん坊だのと、人でなしのように言っている。このようなことを聞くのも気の毒である。これらのことはどうか。」
(梅岩)
「その親類の者が悪口を言うのは、みな法を知らないからである。道あって集める金銀は天命である。天から賜る宝を捨てず、天の命に背かず、倹約を守って礼の本(もと)を守っているのだ。また道を行う者が、他人から悪口を言われるのはよくあることだ。孟子も、「士は憎まれる」と言っている。聖人の行いは小人の行いと異なるために、孔子でさえも非難されたものだ。また美食を好まないのは身の程を知っているからである。二汁五菜、七菜などという重い料理は、下々の食べるものではない。お上(武士)からの身分相応の料理の段階を考えてみれば、お前の親方の料理は、少し奢り(贅沢)であるとさえ言えるだろう。それを親類の者が、箸を取ったらすぐ食べ終わるなどと文句を言うのは、身の程を知らない奢りである。親類たちは前回の飢饉の年には、米を買うお金を借り、お前の親方のおかげで飢えずに済んだのに、それを忘れ、身の程を忘れている。今自分たちが豊かに暮らしているからと言って、そのような悪口を吐くというのは、論じるにも値しない。けれどもそのような者にも道を知らせようと思う親方は、孟子の言う、「中庸の徳が備わった人は、そうでない者を教える」という人である。またその親類たちが悪口を言うのを聞いていながら、これを手本とせよとばかりに、精一杯家業に勤める姿を皆に見せるというのは、まことの心と言うべきだ。親類の者はそれと気づくことがないまま、親方によって心を尽くされてばかりである。(後略)」
(ある人)
「いつだったか親方の次男が、内緒で和歌を学んでいるということを聞き、親方は喜んで、何か褒美をやろうと言って、大算盤をご褒美としてやっていた。歌学の褒美に算盤とは、まことに木に竹を接ぐようで、文盲(無学)なことをされる。これらはどうか。」
(梅岩)
「その褒美の心を知らないで笑うお前の方こそ、文盲の者と変わらない。その次男の日頃の行いを聞けば、家業のことは一つも勤めず、遊郭などの遊びはしないけれども、謡、鼓、歌学に励んでいるそうだ。そのため以前は親方も時々意見していたと聞いている。けれどもお前たちが思うに、次男は悪いところへ行っているわけではなく、身分相応のことであって、これぐらいのことで度々意見するのは、かえって次男の心が歪むのでよくないと、大勢が口々に言うので、親方もそれ以後は何も言わなくなったと聞いた。論語に、「君子は本(もと)をつとむ」とある。家業に疎い者ほどどうしようもない者もいない。第一にそれは不孝となる。「不孝の罪は重くして、刑罰にも入れられず」と孝経にもある。家業に疎いことを悲しまれたのであって、歌を詠むのを喜んだのではない。歌学にかこつけて、その褒美に算盤というのはどういうことかと、次男に考えさせるためであろう。それをお前たちは、さも利口そうに、頭を振ってこれを笑う。「親の子を思う慈悲は至らざるところなし」。お前たちのような軽薄な忠をもって理解できるものではない。」
(ある人)
「親方は、親類や奉公人の中から金銀を借りに来る者があれば、貸す貸さないはさし置いて、「あなた方の家の財産で、何人かの暮らしが維持できないことはないはずだ」と言って貸さない。また、理が通っていれば、彼は返すことはできないと知りながらも貸す。利のあることを全く知らないように見える。これらの是非はどうか。」
(梅岩)
「それらのことにも深い心があるのだろう。なぜかと言えば、世間で金銀が出入りしているのを見ていると、たとえ親類や奉公人であっても、まず彼はこれほどの金を返すか、返さないかと、金銀を貸す前に吟味するのは当然である。お前の親方は、先方に暮らしが立ち行かなくなる筋道があれば貸し、それがなければ貸さないというのは、親が子を思う心と何も変わりはない。ああ、世の中の人の十人のうちに二、三人ほどでもこのような人がいたら、世に難儀する人は少なくなるだろうに。自分の金銀だとは思わず、自分は金銀のことを治める役人であると思う志は、世にまれなことである。自分の親族の人たちをそのように親切に思う人には、誰もがなりたいと思うだろう。孔子も、「困窮した者を補助し、富んだ者には継ぎ足さない」と言っている。お前の親方のように、欲心を離れて金銀を出し、人を救うのは、聖人の志によくかなっている。ある田舎に、そのあたりでは裕福な人がいた。この人は親類中に金銀を貸すときに、借りに来る人がいれば貸していたが、「返すつもりがあれば返しなさい。私は金貸しを家業にしていない。よって利息は取らない」と言って貸したそうだ。これほどの人さえまれであるのに、お前の親方は、先方の支払いが不足する理由を聞いて、道理の立つ不足であれば、いつ返すということには構わず貸すということであれば、合力金(困っている者に協力して与える金)というものであって、取り返すという心を離れた仕方で、天下の飢えた人を救うことに似ているものだ。」
(以下私見)
この社会は少数の役人が大多数の一般人を指導し、監督して成り立っているわけではない。。我々一人ひとりが、よりよい社会を作っていく使命を帯びた役人なのだ。。