石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(六)

(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)

「鬼神を遠ざけるという事を問う」

(ある者)
「我が国の神道と、唐土(もろこし)の儒道とは、異なるところがある。孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざけよ。これを知と言うべし」と言った。我が国の神道はこのようなものではない。神という名は同じであるのに、このように違いがあるのはなぜか。」

(梅岩)
「あなたは我が国の神を、どう理解しているのか。」

(ある者)
「我が国の神は馴れ親んで、近づくことをもって本(もと)とする。遠ざけるのは不敬とされる。よって、何か願い事があれば、願状をもって神に祈る。その願いが成就したときは、鳥居を立てたり神社の修復をしたりするのである。我が国の神は、このように人の願いなどを受け入れてくださる。けれども聖人は、敬して遠ざけると言う。ここには雲泥の差がある。これをもって見れば、儒学などを好む者は、我が国の神道に背く罪人と言えるのではないか。」

(梅岩)
「敬して遠ざけるというのは、そういう意味ではない。外神(天地、山川等の神々)を祭る際は、敬い慎むことのみを主とする。それによって道に外れた穢(けが)らわしい願いを遠ざける。また先祖を祭る際は、孝を主として、遠ざけるということはしない。さて、「敬して遠ざける」ということの解釈に、大いに取り違えていることがある。「神は非礼を受けたまわず」。そうであれば、非礼の願いをもって近づくことを不敬とする。敬いを遠ざけるというのではない。あなたの言うようであれば、我が国の神は願状を捧げて成就に至った場合には、願文の通りに鳥居を立て、あるいは神社の修復などをすることを敬いであると思っているのか。」

(ある者)
「そうだ。」

(梅岩)
「そうであれば今ここにある人がいて、「あなたの隣の家の娘を息子の嫁にしたい。仲立ちをしてほしい。お礼にお金を払う」と言ったとしたら、恥を忍んで仲立ちをするだろうか。」

(ある者)
「それは人を卑しめる接し方である。金に目が眩んでどうやって仲立ちができるだろうか。」

(梅岩)
「あなたにも道に外れたことを憎む心があって、屈辱的な頼み事を受け入れることはないと見える。そうであれば貴人に対して、何かお願いをする時に、「この事を成就してくだされば、これだけの金銀を差し上げます」と言うべきだろうか。」

(ある者)
「それは貴人を軽んじるのと同じことだ。とてもそんなことは言えたものではない。」

(梅岩)
「貴人に言うこともできない不義をもって、清浄の神に祈りをなし、「願い通りにしてくださったら、鳥居や社の修復をいたします」と言うとき、鳥居や修復に心を動かされるような浅ましい神がいるだろうか。それを非礼の物(願状)を捧げ、神を穢(けが)していれば、ついには神罰を受けるだろう。恐るべきことだ。「心だにまことの道にかなひなば、いのらずとても神やまもらん」との御神詠もあるほどだ。子路が孔子が病気の時、孔子に対して神に祈ることを勧めたところ、孔子は、「私は久しく(いつも)祈っている」とだけ答えた。祈るということは、誠の道にかなうことである。誠の道にかなわないなら、なぜ祈ることがあるだろうか。それを我が国の神道と違うというのはどういうことか。すべて聖人の書は、このような迷いを解くための書なのである。書によって迷ってしまうなら、書など無い方がよい。古(いにしえ)より神国の助けに儒道が用いられてきたことを知るべきである。我が国の神も、非礼非義の賄賂を好まれるだろうか。清浄潔白の水上(源)であるがために、神明と申し奉るのである。我々が神を信仰するのは、心を清浄にするためである。それなのに様々な非礼非義の願い事をもって朝から夕べまで参拝し、色々な賄賂をもって神に祈る。これらは不浄をもって神の清浄を穢す者であるから、これぞ真の罪人というべきであって、神罰を受けることになるだろう。孔子は、「罪を天に穫(え)るときは、祈る所なし」と言った。聖人は天命の他に何かを望むことはみな罪であると言う。願い事というのは多くは自分勝手なものである。自分勝手なことをすれば、他人には迷惑となる。他人を苦しめるのは大きな罪である。罪人となってどうして神の御心にかなうだろう。万民に隔てなく恵みを施すのが神というものであろう。一方には良く、一方には悪いような願いを叶えてくださるはずもない。願いが叶うとか叶わないとかいうのを例えてみれば、親が財産を譲るようなものである。子からの願いは受け入れられない。身持ちが正しければ財産を相続できる。また身持ちがいい加減であれば、財産を相続することはできない。願いが成就するというのもこれと同じである。天命は我が身にあることを知るべきである。神の御心は鏡のようなものだ。神の御心のどこに自分勝手な私事があろうか。それなのに願いが叶うことがあるとこれを納受と呼ぶ。これを他人は聞いて、誰それは何を神に捧げたので願い事が叶ったなどと言う。このように評判が立てば、ついには神を賄賂取りの神となし、穢してしまうことになる。哀しいことではないか。これは天命というものを知らないためにそうなってしまうのである。」

(ある者)
「ある人が、孔子は「鬼(祖先の霊)ではないものを祭るのは諂(へつら)いなり」と言う。祭るべきではないと言っている。我が国には土地の神、また大神宮といえども、御恩のために五穀の最初の収穫や、あるいは神楽などを捧げ奉っているが、そこにも唐土(もろこし)との違いがあると言う。それなのにあなたは、神は一列であるかのように言うのは、どういうことか。」

(梅岩)
「中庸に、「鬼神の徳は、盛んであるかな。物に体して遺(のこ)すべからず」とある。鬼神とは天地陰陽の神のことを言う。「物に体して遺すべからず」とは、造化の鬼神の効用にして、鬼神は万物をすべて司(つかさど)るということを言う。また、我が国の神も、イザナギ、イザナミより受け給い、日月星辰から万物に至るまですべてを司り給い、残るところがないので、唯一にして神国と呼ぶのだ。ここはよく考えてみるべきところである。とは言っても唐土とは違い我が国には、大神宮(アマテラス)の御末を継がれた天皇がおられる。よって天照皇大神宮を宗廟と崇め奉り、天下の君のご先祖にわたらせたまうので、下々の万民に至るまで、参宮と言ってことごとく参詣するのである。唐土にはこのような例はない。この国は宗廟を尊ぶので、宗廟に神楽や初穂を捧げ奉る。今日天下の万民より君(天皇)へ貢物を捧げているのと似ている。(中略)昔、魯国の三家は、天子宗廟の祭りに歌う詩を歌って自分たちの先祖を祭り、また山の神をも祭ろうとした。このような分不相応な、理に背くことを行えば、してはならないことをするということになるので、「その鬼にあらずしてこれを祭るは諂いなり」と言うのである。そのうえ孟子も、「社稷(土と穀)の神は民の為に立つ」と言うのであるから、収穫した五穀を捧げるようなことは唐土にも有ることだ。(中略)俗説にかかわらず、根源のところをよく考えてみるべきところだ。」

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