中沢道二「道二翁道話」を読む(十八)

(岩波文庫の原文を現代語訳しています)

「道二翁道話四篇巻上」

「隠れているものより顕(あら)われているものはなく、微かなものより明らかなものはない。ゆえに君子はその独りを慎むのである。と中庸の第一章にある。すべて物事は隠すほど早く知られるものじゃ。その中でも悪いことほど早く知られる。悪事千里と言ってたちまち知られる。怖いものじゃ。和泉式部の歌に、」

「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる(春の夜の闇は道理に合わないことをする。梅の花の色は隠すが香りは隠さない)」

「この香りやは隠るるとは、こちらは知らずにいても、あの香り、この匂いと、香りが来る来るということじゃ。これをたとえてお話ししましょう。少し下品な話じゃけれど、我慢してお聞きなされ。ある茶屋の座敷で客がお山とこたつにあたって遊んでいる。すると気の毒なことじゃ。出もの腫れもの所嫌わずというやつで、お山がおならをスッとした。そのくせ音がしないのでなお悪い。お山もハッと思った。けれどさすが勤めをする身じゃ。鏡袋から伽羅を出して、そっと薫(く)べて紛らわそうとする。そのそばにいる座頭(盲人)が鼻をひこひこして、モシどこかこのあたりに木薬屋はございませんか、お山がどうしたの、と答える。座頭がハイどうやら木薬屋で糞を取るような匂いがいたしますと言った。天地は明らかなものじゃ。屁をこけば屁の匂い、沈香は沈香の匂いと、香りが来て説法する。何と明らかなものじゃないか。隠れているものより明らかなものはない。隠すことはならぬ。だからこそ腹の中にホコリを溜めておかずに、どなたも早く懺悔をしてしまいなさい。懺悔とは腹の中の洗濯、悪人も首を切られてしまえば、罪が滅びて成仏する。迷いが解かれたようなものじゃ。めしを食った後に茶碗を元の棚にしまうようなことをしている。それによって君子の腹の中は、日々に新たに掃除が行き届いて清浄。この君子の腹の中をたとえてみれば、清浄な白紙のようなもので、その白紙にちょっとウサギの毛の先ほどでも、墨が付くとたちまち顕(あら)われ見える。明らかなものじゃ。またあなた方の腹の中は、第一掃除をしないので日々のホコリが溜まり、牛小屋か馬小屋のようになっている。そこで猫の糞やら、イタチの尿やら、積み上げてあるけれど、大きなホコリが来ても、格別目立ちもせず、ごちゃごちゃしているとも汚いとも思わず、それを常として暮らしている。これは本心(本来の心)の主人がないからで、空き家同然の詰まらないものじゃ。」

「いかんとも仕やうのないは仏なき堂へ参りた心地なりけり(どうにもしようがないのは、仏のいない堂へ参ったときの気持ちのようだ)」

「近所からごみを捨てに来る子供が相合傘を落書きしたり、あかんべえを落書きしたりして、犬までが便所にする。徒然草に、主人のいない家にはキツネやフクロウのようなものが、我が物顔をして住み慣れて、けしからぬ霊が出たりするとある。何が起きるかわからない、怖いものじゃ。水が澄めば冠のひもを洗い、濁れば足を洗うと、田舎の子供が歌うのを、孔子がお聞きになって、弟子たちよ聞け、水が濁れば足を洗い、澄めば冠のひもを洗う、水が自ら決めるのだと御示しなされた。なんとありがたいことじゃないか。本心好きのところへは、客に来る者が道の話ばっかりする。俳諧好きのところへは、俳諧の話ばっかり。浄瑠璃好きのところへは、寄り集まる者が浄瑠璃のことや、芝居の話ばっかりして、みなこちらの腹の中のものが寄り集まる。よくできたものじゃ。家の周りを綺麗に掃いてあるところへは、めったに犬が小便もするものじゃない。しかし自堕落で掃除をしないところへは、いろいろ様々なごみを捨てに来る。夏頃めしが腐ると虫が湧く。あれもめしが悪くなるより前に、どこかにめしの腐るものはないかと、虫が湧いて待っているわけでもない。これでよくご理解なさいませ。災いも災難も外からは来やしない。みな腹の中からおいでおいでして、招き寄せたのじゃ。権兵衛は悪いやつじゃ、ゆうべよく寝ていたものを、よいチョボイチ(さいころ賭博)がある、来いと言って連れて行き、眠たい目をして行けばコロリと大負け。今日はいっそヤケじゃ。休みにして芝居を見に行こう。悪いやつじゃと、向こうばっかり恨んでいる。向こうが悪いのじゃない。こちらの腹の中にチョボイチを持ち合わせているために、おいでおいでしたことは知らずに、権兵衛ばっかり悪者にしている。これが腹の中にチョボイチのない正しい人のところへ、今夜チョボイチがございます。御足労ながら御出席くださいませなどとは、どうにも恥ずかしくて、言えたものじゃない。みな腹の中のことですぞ。また女性の方々などは鏡に向かって身仕舞いをなさる。鏡に用はない。みなこちらの用事ばっかり。髪はゆがんでいないか、白粉はまだらになっていないかと、それを吟味するのじゃ。それはみなこちらの用事であろう。神仏に向かってもその通り、向こうに用はない。こちらの心に不浄なことはないか、不忠不孝なことはないか、商売に無理はないか、人に難儀をさせていないか、子孫断絶するようなことをしていないかと、自分の心身を神前の御鏡に向かい、ニコニコすればニコニコする。恐い顔をすれば恐い顔が映る。鏡と神は似たようなものであって、中の我を取ればすなわち神じゃ。自分の正直な心を映して、どうか今日一日、人の道を踏み外すことのないよう、親類縁者を恨んだり恨まれたりしていないか、家来をむごく扱っていないか、年末などに支払いが滞ることがないか、借金を自分の金と思って使ってはいないかと、腹の中を吟味して、不浄な心を祓いたまえ清めたまえと、鏡に映して改め慎めば、祈らなくても家内安全、息災延命、子孫長久の御祈祷じゃ。あなた方のような小人は、この裏道から向こうばっかりをあてにして、どうかこの度の買い物、利潤を得させてくださいませ。どうか上の町のお源を女房に持たせてくださいませと、神や仏を仲人か、取り上げ婆のように思っている。本来の心を明らかにしないからじゃ。それで主人のものを盗んでは、どうか見つかりませんように。大金持ちから、私を跡取りに望むようなところはございませんか。さて私はだいぶ借金がございます。どうか催促されませんようお守りくださいませ。いっそ先方の人が死んだら、なお結構でございますと、目を開けたまま悪い夢を見ているかのようじゃ。本来の心を明らかにしないからじゃ。今日の天の道は恐れず、借金取りから逃げ回る臆病者。不忠不孝の借金は、土になっても水になっても、償わなければならないけれど、それも引っくるめて祓いたまえ清めたまえ、そのほか様々な願い事、何もかも一緒にぶち込んで、いっそひとまとめにして諸願成就。あんまりにもあつかましい。こりゃあなた方のことじゃない。みな私の腹の中の懺悔じゃ。私は若い頃から大変なろくでなしで、こんなことばっかり言って、神仏をなぐさみものにしておりました。もったいないことじゃ。今でもそのような鬼たちが、腹の中にうろうろしておりますので、時々降伏するのでございます。その付き合いじゃとおもってお聞きくださいませ。それなら神仏は祈願を叶えてくださらないのかと思うが、なかなかそうしたことじゃない。」

「千早振る神も願ひのあるゆへに人の値偶に逢ふぞうれしき(神にも願いがあるので、人と縁あってめぐりあうと嬉しい)」

「この神も願いのあるゆえとはどういうことか。神仏は一切衆生の願いを、かなえてやりたくてしょうがない。それが神仏の願いじゃ。こちらに信心さえあれば何でも叶えてくださる。信心とは自分の心身をまことにするのじゃ。けれど誠がない。みな嘘の願いじゃ。」

「祈りても験なきこそしるしなれ人の心にまことなければ(心にまことのない人が祈っても、神の力のあらわれが何もないことこそが、神の力のあらわれである)」

「ただこちらに誠がない。願をかけたら願をかけた通りに、こちらの心も身体も、願の通り勤めるのじゃ。身に勤めなければ役に立たない。立身出世がしたければ、主人を大事に親を大事に、こればっかりでもうよい。立身出世するに違いない。家内安全も商売繁盛も子孫長久も身に勤めることの中にこもっている。ただこの身に行いさえすれば、何でも成就するに違いない。このように言うと、また親御様のないお方が、我らはどうしよう、孝行のしようがないと思っておられるだろうが、そうじゃない。親子は一世と言って、天地のある限り心が一世じゃ。そうであればこの身がそのまま親御様、大事にされることじゃ。父母の御形見じゃ。和論語に、藤原の朝綱が、「両親がいないといえども、我が身がそのまま父母の形見であれば、一挙手一投足が父母の行いであって、茶を飲むのもめしを食うのも、父母の行いであれば、一言一行も欺くことはない。ゆえに私は常に一息の間も、私の心で何かをするということはない」と言ったとある。このようにあらゆることを大切にしなければならないと言えば、また早合点の方がいて、なるほどそうじゃ。この身がそのまま親父様なのだから、わしが酒を飲みたいと思うのはそのまま親父様の思し召しじゃ。これを叶えるのが孝行じゃと言っては飲み、このように仕事をしたくないのは御両親が御退屈なさったのじゃ、と言っては休み、また博打が打ちたいと思う、これすなわち父母の形見であればそのまま博打を打つのが孝行じゃと、思っている方もある。それではしまいに菰(こも)をかぶって、野垂れ死にしなければならぬ。大事な親御様方に、菰をかぶせるのを孝行とは言わぬ。身体を父母から受け、あえて損なったり傷つけたりしないことを孝行の初めと言う。身を立て道を行い、名を後世に上げることで父母を顕彰することが孝行の終わりである。それなのに菰をかぶせてたまるものか、このような間違いがあるものじゃ。親を大切にするという話について、あるところの親御様が昼寝をしていて、その鼻の先に蚊が止まっている。息子殿これを見て大いに腹を立て、大事な親父様の鼻を食う盗賊めと、そばにあった割木でピシャリと叩く。蚊は逃げて、親御様の鼻柱を叩き砕いてしまった。めちゃくちゃなことになってしまった。このようなことはそうあることでもないけれど、面白い話じゃ。世界の難儀というのはみなこのようなことから起こる。善いことでも悪いことでも、一方に偏るときは、みなこんなものになってしまう。向こうにあてをこしらえて、求めてすることは役に立たぬ。人にものを施せば、その身の功徳になると聞いて、盗みをしても施すのであれば功徳になるように思う心得違いをする者が出てくる。怖いものじゃ。教えによらなければならぬ。そうでないと、買い物は無理に値切り、売り物は高利を貪り、人の汗あぶらを集めて家内を養い、大きな顔して年忌法事を勤めるのは、みな親先祖の鼻柱を叩き砕いているのじゃ。それによってこの身体に少しでも人の道に外れたことがあると、それはそのまま親御様方を地獄の釜に突き落とすことになるのじゃ。極悪非道なことではないか。五刑の類三千、不孝より大きな罪はなし。だからこそ日々に新たに戦々恐々と、ただこの身に誠を勤め行うより他に人の道はない。鏡にかげが映るように、にらめばにらみ、笑えば笑う。鏡に少しも私心はない。これがすなわち鏡の徳、それを鏡をにらみつけて見るのに、笑う顔が映るのは鏡の化け物というものじゃ。不忠不孝をしても幸せで、商売を適当にしても繁盛し、不養生しても長生きの諸願が成就する神仏なら、それは化け物というものじゃ。後でそれはおかしいと文句が出てくることになる。とにかく向こうに用はない。ただこちらの勤めにあることじゃ。聖徳太子の御歌に、」

「極楽ははるけきほどと思ひしに勤めていたる所なりけり(極楽ははるか遠いところにあると思っていたが、日々の行いを勤めることで至ることのできるところであった)」

「と、ありがたい御歌じゃ。腹の中に汚らしいものがないよう、」

「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん(心が誠の道にかなっていれば、祈らなくても神は守ってくださるだろう)」

「ゆえに君子はその独りを慎む。先日江州高宮という宿にて、道話の会がございましたとき、提灯屋の長八という人が前訓(心学の話)を聞いて、この独りを慎むことを勤められました。これは親御様が後妻を入れてから親子喧嘩が始まり、四、五年ほども連絡が途切れていたのじゃ。それが前訓を聞いて、さてさてありがたいことじゃ。確かに人と生まれて、このように親子一生不和で暮らすというのは人の道にはないことじゃ。犬か猫のように親子で噛み合いをするとはどうしたことか。さてさて浅ましいことと、初めて目が覚めた。それからとうとう詫言をするまでになった。これが向こう構わず一生の間、詫言し通しの修行じゃ。ただ我一人を慎むのじゃ。また親に詫言をするのは、借金の詫言とは違って大抵やりやすいものじゃないけれど、心学の力がないと、この詫言し通しの修行ができにくい。この本心(本来の心)を知るというのはありがたいもので、人は天地の活きているのじゃということが確かにわかるので、意もなく必もなく固もなく我なしになって、頭のてっぺんからつま先まで、「天が何を言うだろうか、四季は運行し万物は生々する」ばっかり。尭舜の道は孝悌のみ。この他に少しも我はない。我がなければ、出過ぎるということがない。それで親子の間がととのったものじゃ。」

「いさかひは実に山びこのこだまかや我しづまれば向ふ音なし(争いはやまびこのこだまだろうか。こちらが静かになれば相手からも音がしない)」

「よくできたものじゃ。本心を知るとなんにも言うことがない。ただ今日の天命が受け取り前じゃということがわかっているので、落ち着いて今日を暮らす。ありがたいものじゃ。それなのに肝心の我が心を知らぬ者は、あてどなしの旅をするようなもので、自分の落ち着きどころを知らぬ。たとえば道中にて駕籠を借りてまず乗ったまではよい。さて駕籠かきがモシ旦那様どこまでやりましょう。ハテどこということはないわい、俺は知らぬ。どこでもいいから行ってくれ。そこで駕籠かきが、ハイハイ言って、あちらへ昇っていったり、こちらへ持っていったりしても、根っから行き先がわからぬ。それで駕籠かきもうろうろ、乗る人もうろうろ。とんと天竺浪人。駕籠かきも巻き添えを食って、難儀なものじゃ。人は孝悌忠信という落ち着きどころがないと、朝から晩まであてどなしの長旅。雨が降ると言ってはうろたえ、天候が良くなったら米が下がると言って踊り、こういうものが流行りだしたと言っては銭金を減らし、芝居は何々をする、旅行にも行かねばならぬ。網打ちにも行かねばならぬ。しかしこう金儲けが少なくては済まぬ。何かよい話はないか、このように世間が暇では狐が難儀するだの、タヌキの食い物がないだの、何と言っても金がいる。金がなければ遊んで暮らせぬ。思うように贅沢できぬと。明けても暮れてもうろたえ騒ぐ。旦那どのの、落ち着きどころがないと、家内もろともあてどなしの長旅路。駆け落ち一家離散夜逃げ等々、賑やかな渡世じゃ。孟子はこう言った。人の道はどこにあるか。飽きるまで食って暖かく着て、ダラダラして教えがなければ禽獣に近い。鳥けだものの御仲間じゃ。その鳥獣でも各々の家業に精を出すから、年末などに支払いが滞ったカラスもない。スズメやハトが商売が合わぬと言って顔をしかめたこともない。タヌキやオオカミが物乞いに出たこともない。だからこの者たちに教えはいらぬ。朝から晩まで各々の道を守り、スズメはスズメ、カラスはカラス、チュウチュウコウコウと精を出して勤めるから、ついにカラスが身元引受人に預けられたという話もない。ただ忠孝の二つを、鳥たちまでも勤めているのに、それでもしぶといものは人じゃ。だからこそ聖人たちや神仏は御世話なさるのであって、その教えによらねばならぬ。またこの長八殿の友達が五、六人もいる。その者たちは禅宗を聞きかじって、俺が俺がと言う鼻高連中じゃ。みなさんよく心得ておきなさい。この禅宗というのはいたって大切な教えじゃ。それを悪く聞きかじるととんでもないものになって、耳を取って鼻をかむようなことばっかり言って楽しみとしている者がいる。そこで長八殿がどうかこちらの道へ引き入れようと、いろいろ様々世話をするがなかなかわかってくれない。世話をすればするほど、向こうの鼻が高くなる。それでも長八殿は根気よく、時々見舞い機嫌を取り、こちらから礼を厚くするけれども、後には途中で会っても、ものも言わず無礼をする。かえって人前で辱めるようなことまでする。さすがの長八殿も愛想を尽かし大いに腹を立て、私へ相談じゃ。さてこの度おかげさまで、本心(本来の心)のありがたいことを知りまして、あの連中は長い付き合いの友達でございますので、何とかこちらの道へ引き入れようと世話をいたし、さまざま勧めましたけれども一向に取り合わず、かえって無礼をいたし、人前で恥をかかせようといたします。なんともこの上は心外に存じますが、このようなときは、どうするのがよいのでございましょうかとのお尋ねじゃ。そこで私が申したのは、よくものを考えた方がいい。こちらからは礼を尽くし、誠をもって尊敬するのに、かえって憤りを起こし嘲るとは、そりゃ片輪というものじゃ。その片輪者を相手にして腹を立てるというのは、こちらが片輪者に弟子入りするというものじゃ。そんな片輪者のためには腹を立ててやる必要もない。まずこちらから礼を厚くするけれども、向こうが無礼をすると思うのが間違い、それが向こうに取られているというものじゃ。向こうに用事はほとんどない。こちらの腹の中にあのようなものはないかと吟味するのじゃ。ゆえに君子の学ぶところはこの独りを慎むばっかり。常は君子も小人も同じこと、なんにも変わったことはない。石川五右衛門じゃとてにらみっぱなしで歩くものでもない。けれど物事が節に当たると節に当たらぬとの違いで、君子と小人がわかる。たとえば今日その日暮らしの人が、大根大根なすびなすびと言って売り歩く間は、みな節に当たっている。君子に売らせてもその通り、同じことじゃ。コレ大根と呼びハイ大根何本で、と答えるあたりから節に外れる。大概十文で売ればよいものを三十文でございますと言う。なぜかと言えば、ひょっとしたら向こうが二十文くらいで買うかもしれぬと思って節に外れる。そこで買い手も十文に値切ればよいものを、六文にしなさいと節に外れる。それから大根売りがムッとして節に外れて、貴様に大根は性に合わぬわいと言う。イヤなんという死に損ないの親父め、二度とこの町内で大根を売るなと大いに節に外れる。それから双方悪口の言い合い、何の役にも立たぬことじゃ。よく考えてみた方がよい。たかが五文か三文のことで大根一本真ん中に置いて、大の男が節に外れる有様、なんとこれが女房子供に見せられる姿かい。よっぽど恥ずかしいものじゃないか。これも大根を値切るときばかりじゃない。日々いくらでもこのようなことはあるものじゃ。親御様が呼んでいる。ハイと言って行けばよい。今ちょっと用がございますと節に外れる。年寄りは気が短い、用があってもまあ来いやとおっしゃる。そこで口の中でああ面倒なと節に外れる。それからだんだん節に外れる。ギクシャクとしてくる。仏家ではこの節に外れることを地獄と言う。また節に当たることを極楽と言う。すなわち中庸の中じゃ。また至善の地とも言う。心の本体じゃ。天上のことは声もなし香もなし、目に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ずと言って、胸の中にいろいろ様々の分別をこしらえて迷って見ても、カラスは黒い、サギは白い、どのように迷っていても、水は冷たい、火は熱い、また分別の迷いを止めて見ても、やっぱり火は熱いし水は冷たい。おんなじことなら、迷いの妄想をやめて心に不浄を見ないときは、高天原に神がとどまり八百万の神たちを神集い(かみつどい)に集めたまい、神議(かみばかり)にはかりたまいて、たばこを呑もうと思うと、いつの間にやら吸い口が口のそばへ来ている。何の苦労もなくたばこを呑んでいる。うまいものじゃ。また頭がかゆい、そのまま手が行って掻いている。右の手に用があると左の手が勤めている。手がもうちょっと待っておくれとは言わぬ。左右がお互いににらみ合ったり、気兼ねしたりすることはない。君に従う臣であれば、心に何か思ってこうしたいと思う。そのままに手足が働いている。体用一致、形と心に隔てはない。身と心を合一にして、天地自然の御姿。これがすなわち今日の道。道は今この瞬間の上に明らかである。今日は結構な御天気様でございます。ハイさようでございますと同じことを言っている。言う前から、よい天気はわかっていることじゃ。けれど思わず知らずのうちに言っているのは、今日の天地のこの姿の通りを説法しているのじゃ。それが無心無念の本仏の御説法。少しも思慮分別なしで節に当たっている。世の中の売り買いする声も法を説いている。三千世界がみな説法じゃ。また雨の降る日に、今日はいい天気でございます。それでは誰も相手にする者がない。あの人はどうも間違っているようだと、天地の道に外れているので、どこへ行っても通用ができない。またどれだけわかっていても、ちょっと顔かたちの不出来な人を見て、おまえ様の顔は汚い顔じゃと言ってみるがよい、わかりきったことだけれど、どんな者でも腹を立てる。そのはずじゃ。天が人の心なのであるから、天に悪口を言ったり非難したりするので、どのような愚かな者でも腹を立てる。盗人を盗人と呼ぶのは当然のことだけれど、腹を立てる。エタをエタと呼ぶのも同じことじゃ。けれど小人を小人と言っても腹が立たぬ。自分のことではないと思っている。おまえの顔は汚い顔じゃと言っているのだけれど、何とも思わずにいる。それで形では不義不動を行いながら、心の内ではわしはよっぽど利口な者じゃ、このような結構なことを知らずにいる世間の人は、ぬるいものじゃと思っているのと同じようなもので、これが心をもって形に使われるものとし、家来が主人を使って、丁稚が座敷に座り、旦那殿が豆腐箱を提げたり、たばこ盆の掃除をするのじゃ。家内が逆さまになってわけがわからぬ。そこで神仏聖人が気の毒に思って、教えを立て、この心と形とが一体であることをよく理解せよと仰るのじゃ。それからその一体である心も形もひっくるめて、そのまま天の働きであることを知らしめ、それから人にはほんの少しも私心というもののないことを知らしめ、生まれる前から天の霊明は我に備わっていることを知らしめるために、いにしえの明徳を天下に明らかにしようと欲するがゆえに、春になれば梅が咲く、秋になれば柿ができる、栗の木には柿はできない。人は孝悌忠信のみ。この仏は知見を開かしめるために世に出現したものじゃ。うろたえるために出現したものではない。それなのに子ができたと言ってはうろたえ、金を儲けたと言ってはうろたえ、損をしたと言ってはうろたえ、褒められてはうろたえ、非難されてはうろたえ、見るにうろたえ、聞くにうろたえ、うろたえ仏よ目を覚ませ。本来の名目とは何か。親に孝行、主人が大事、いにしえの明徳とは何か。その親を親としてその長を長とする。スズメはチュンチュンカラスはカアカア。これは何者が鳴くのか。また何者が鳴かせているのか。よく考えてごらんなさい。これらが根っから自分で鳴くものじゃございませんぞ。先日クモが巣を作るのを見ましたが、そのクモが巣を作るのに高いところからぶらりと下がって風待ちをしている。ふとどちらからか風が吹く、その風に従って、ちょいとひっつき、その糸を頼りにしてだんだんとかけて回るが、クモの腹の中にあのように、長い糸が入っているわけでもあるまい。けれど巣をかけようと思えば、何が糸になるやら、ズルズルとあの通りにできるのは、不思議なものじゃ。その糸を後ろ足でチョイチョイとかけてまわるのはうまいものじゃ。差し金も墨つぼも持っていないが、寸分の狂いもない。それでクモは賢いものじゃと、クモばっかり褒めているが、あれがクモの知恵や才覚で、できそうなものかいな。誰がクモを使っているのか、考えてごらんなさい。花壇には牡丹の盛り。なんと見事なものじゃないかと牡丹ばっかり褒めている。菊の花の盛り、さても綺麗なものじゃ。いろいろな花を比べ、どうしてこのようにできるのかと、菊ばっかり褒めている。根っから菊の根や株ばかりではできぬ。天地の父母が昼夜御苦労なされることは知らず、俺が作った、俺が咲かせた、俺が俺が。先日カイツブリの巣というものを見ましたが、これは尊い細工じゃ。小さいかごのようなものじゃが、草の根のようなものや、髪の毛のようなものを集めて編んだものじゃ。水の上に浮かんでいる。地から生えた草を頼りに編み付けたものなので、風が吹いても流れないようになっている。よくできた細工じゃ。あれがカイツブリの思案分別でできるものじゃない。細工人は天地にたった一人じゃ。考えてごらんなさい。私もこのスウスウの息ばっかりで、腹の中は虚空じゃ。話が仕込んであるものではないけれど、何か言おうと思えば、このように、うだうだ話をしております。クモの腹から糸が出るのと同じようなものじゃ。何がこのように話しているのか、不思議なものじゃございませんか。この身のはたらきや目鼻の細工、見たり聞いたりを誰がしているのか。死人にも目もあり、鼻もあるけれどなんにも見えぬ、なんにも知らぬ。どういうことか、考えてごらんなさい。今目をふさげば暗闇、この暗闇は誰が見ているのか。身体が暗がりを見ているのか、暗がりが身体を見ているのか。目をふさいでいても、何か音がすると一番に耳が見る。どんどんは太鼓じゃ。ガリガリはネズミがかじるのじゃ。においがすると目も耳もよく見ないことを鼻が見る。それぞれの役の受け取り前。少しも間違うことのない明らかな芸。人間業とはとても思えない。また味わいは舌が見る。腰のあたりがかゆいと腰が見る。手が行って何やらひねり出す。おっと硬い、これはノミじゃと指が見る。一切心で見るゆえに、聞いて見る、食って見る、嗅いで見る、言って見る、して見ると、世界の音を観じ見る。娑婆至現観世音大悲一体衆生を利益すと言う、この本文は何を言ったものか。三界唯一心の効用で、見るのも、聞くのも、思うのも、言うのも、この娑婆世界一観世音が示現なされるのじゃ。その見ると聞くを提婆が自分のものにして、あれが欲しい、これが欲しい、どうしたいこうしたいと、悪行を積み重ね、生身地獄に入ると言って、生きながら大地が引き裂けて、地獄に落ち入ったということじゃが、この生きながら土の中でホンホンする提婆はどこにいるか。ちょっと考えてごらんなさい。身体は土の小高いもの、その中からあれが欲しいこれが欲しい、春はどうしよう秋はどうしよう、なんと言っても金がいる、金がなければどうにもならぬ。人を突き倒しても金を儲けてやろうともがき苦しむ。この提婆は生きている限り地獄の釜焦げ、浮かぶことはできない。それでは不便なことじゃないか、どうか大慈大悲を起こし、成仏させておやりなさい。なんにも難しいことじゃない。三界唯一心と言って、天地の間にたった一つの誠をお知りなさるのじゃ。」

「傀儡師胸にかけたる人形箱仏出そうと鬼を出そうと(人形つかいが胸にかけている人形箱からは、仏も出てくるし鬼もでてくる)」

「三界にたった一つ、誠から観音を出そうと提婆を出そうと、お望み次第、好き放題じゃ。その誠が天地の産出したものゆえ、天地の間に二つもなく三つもなく、目もなく鼻もなく、影も形もないものだけれど、忠臣孝子の話を聞いては、感心するあまり涙がこぼれる。また不義不道の話を聞いてはなんとなく忌々しい感じがする。これほど確かなことはない。性は善なり。性に従う人の道じゃ。この他に教えはいらぬ、神道も仏道もこの他にはない。」

(以下私見)
仕事でも、プライベートでも、他人をこうしてやろう、というように接していては、うまくいかないものですな。。人は自分の思うようには変わらず、お互いイライラするだけで何のメリットもない。。人にはほとんど期待せず、常に自分の身に立ち帰って日々の行いを反省することが大切。。見返りを期待することなく、真心こめて日々の勤めを行うのみ。。

いいなと思ったら応援しよう!