中沢道二「道二翁道話」を読む(十七)
(岩波文庫の原文を現代語訳しています)
「道二翁道話三篇巻下」
「「乾元(万物の根源の気)は何と大きいことか。万物はこれをもって始まる」と易に説かれている。このありさまをたとえてお話ししましょう。この前京都四条の納涼で、商人鑑という、からくりの見せ物があった。三、四間ほどの舞台をこしらえ、その上にずらりと家をこしらえ、人形を並べ、米屋酒屋扇屋鍛冶屋と、ちょうど疱瘡見舞いのぴんぴんの人形のように、台の下で一本の真木を回すと、それぞれの人形が同時に動く。餅屋の親父が餅をつく、米屋は米を踏む、酒屋は酒を量る。扇子屋は扇子をカチカチする。煙草屋は煙草を切る。鍛冶屋はとんてんかんする。その大勢の人形が、ことごとく動くからくり。これが万物は乾元をもって始まるということじゃ。一体の真木、一本の働きで、三千世界が一切そのままに、一をもってこれを貫く。無心境界、天命で生きている。この天命に従って、見たり聞いたり、思ったり知るといえども、自分の分別で知るというものでもない。」
「難波津に咲くや此花冬籠り分別なしにさくやこのはな」
「梅の花が咲くと、ウグイスが来て鳴く。春になると山吹の花が咲き、お変わりはありませんかとお見舞いに来る。さや豆の時期には生鰹が来て、同じ鍋で契りを結ぶ。うまいものじゃ。これを深い因縁と言う。ナスができるとスイカもできる。同じ時期に生まれ合わせて顔を見合わせる。これを多生の縁と言う。柿の木に柿ができ、栗の木に栗ができ、カラスのカアカア、スズメのチュンチュン。世界と一緒に夜が明けたり、日が暮れたり、万物一体独り狂言。ただ気があって動くばっかり。みなこれそのまま天の細工じゃ。それゆえ一休和尚の歌に、」
「風は息虚空は心日は眼、海山かけて我身なりけり(風は私の息であり、虚空は私の心であり、太陽は私の目である。海も山も私の身体である。)」
「一切は天の働きなのだが、あんまり自由自在ができるので、つい俺がこの目で見る。俺がこの耳で聞く。俺がする、俺がすると思って迷ってしまう。それは癖というものじゃ。その迷いを取ってやろうという神道の教え、仏道の教え、なんにも変わったことはない。この他に教えはない。この道理をとっくりと理解すると、世間の人が精一杯の分別をして、山ほど迷っている、その迷いのすべてにおいて、迷いたくても迷いようがない。十方世界、森羅万象、無心境界になって、このとき初めて知る。天地と同根同性であるがゆえに、五臓の神君安寧なりと目が覚める。何と天のしわざは大きなものじゃないか。けれどもこの天が、なかなか見えにくい。見えないので、シジミの貝殻ほどのことを、どうのこうのと文句を言っている。これを天に合わぬと言う。その文句の溜まったものを天地の間に納める所がないので、朝から晩まで死人を担ぎ回って、どうしたらいいだろう、どうしたらいいだろうと相談に歩くのじゃ。これをたとえてみれば、一本の真木が回るのに従って動く人形の、糸に間違いが来ると、その人形がギクシャクして働きがおかしくなり、どこかで糸が切れると、餅屋の親父が餅をつきながらコロリとこける。米屋の男が米を踏みながらコロリとこける。天の真木一本が回ると、十方世界、一切万物、人間禽獣、江河の魚類、草木まで、動きはたらくからくりなので、天のからくりじゃ。加賀の千代の発句に、」
「千なりや蔓一すぢのこころより(つるひとすじの心から千の実がなる)」
「このスウスウの息が切れると、こないだまで元気だった人が昨晩コロリ。昨日までものを言っていた人が先ほどコロリ。なんともろいものじゃないか。みなさま御用心なさいませ。いつ糸が切れるかわかりませんぞ。」
「財宝を蔵に積むともこの息の引かれぬ時は何となるべき(いくら財宝を蔵に積んだとしても、息を引き取ってしまえば何になるだろう)」
「それを俺が俺がと我ばっかりを立てる人は、どうにも内緒の糸に間違いが多いので、切れるのも早い。無理に引き切るのじゃ。天が首を東の方へ向けると、どっこいと西を向く。天が手を向こうに伸ばすと、そんなじゃないと引っ込める。糸が切れるはずじゃ。この身このまま天のままのものを、わがままにするから間違いが起こる。だからこそ天命のこの息に、間違いができないように、養生に無理はないか、商いに無理はないか、不忠不義、不孝不悌はないかと、日々新たに、時々刻々に新たに、吟味しなければならぬ。もともとは幽(かす)かな、スウスウでもろいものだけれども、また二十貫目三十貫目の重荷を持ち運びするのも、このスウスウの糸で釣り上げているのじゃ。影も形もないものではあるけれども、また強いものでもある。それで仏家ではこれを金剛の性体とも言う。この天の命にさえ従っていれば、一切万物とんと世話いらず。それぞれに道はシャンと備わりきってあるものじゃ。」
「草も木もをのが心と知れば只一つに尽す道の広さよ(草も木も私の心であると知れば、ただ一つで尽くす道の広大なことよ)」
「およそ学問の師匠は日常にある。四季の移り変わりに、草木の緑、枯葉のありさま、昨日は昨日のありさまを見て、自らの五体に及ぼして見るときは、法界一如にしてことごとく明らかである。この法界とは心のことじゃ。心は天が鼻と口から出入りしているので、心に暗がりも明かりもない。ここは君子も小人も同じことだけれども、心を明らかにした人と、明らかにしていない人とは、だいぶ損得の違いがあるものじゃ。それをたとえてみれば、暗がりで火も燃やさずに、話をするようなもので、浅黄やら、萌黄やら、扇子やら、煙管やら見分けがつかない。そりゃあ口で言ってもわかることだけれども、かなり不自由なところがある。これが性(本来の心)に従うのと、従わないのとの違いじゃ。まずこの性の尊いことを、よくご理解なさいませ。日月(太陽と月)が天に懸かって行道なさるのも、性に従っておられるのじゃ。天の五星二十八宿、その他目に見えない微塵のような星々までも、みな性に従っておられる。天地の間に性に従わないものがあるか。これは肉眼では見えにくい。天眼を開いて見よ。日月より尊いところがある。日月にも親御様があるぞ。その親御様がなかなか目には見えぬ。これが尊い天上じゃ。この尊い天上には声もなく臭いもなく、方所方角もなく、虚空と同じことじゃ。何にも影形はないけれど、不思議なものじゃ。肴屋が通れば生臭いと知り、太鼓が鳴ればどんと知る。万事に応じて跡なし。もとの虚空で何にもない。死人にも目も耳もあるけれど、何にも見えぬ。どんどんは聞こえぬ。ただいまこのように活きてものを言っているものは何者か。よく考えてごらんなさい。これがそのまま天のはたらきじゃ。この天の思いが、三千世界いっぱいに詰まりきっているからこそ、それを心としてこのように動きはたらく。これを周遍法界と言う。なんと大きなものじゃないか。この上になんの不足があるか。ありやしない。そうであればもういい加減に満足して、俺が俺がを離してしまった方がよいじゃないか。このように言っても、お前さん方はやっぱり、一寸の虫に五分の魂を忘れることができない。難儀なものじゃ。みな幼少から覚えこんだ癖というもので、無理もないことじゃ。よく考えてごらんなさい。その割合で言うと、四十尋のクジラは二十尋の魂で、人は五尺の身体に二尺五分の魂と言わねばならぬ。それでは半身が動かぬ中風病じゃ。魂が腹より上にあれば、腰から下はお留守。腹より下にあれば、へそから上は動かず、何にも役に立たない。心はそのような小さいものじゃない。身体の百倍あっても間に合わない。三千世界の外まで詰まりきっているからこそ、長崎へ行ってもはたらくことができる。江戸に住んでいても目が見える。耳も聞こえる。天地の外までいっぱいの心であればこそ、自由自在ができるというものじゃ。けれども目には見えぬ。これが日月の親御様じゃ。この日月の親御様にお近づきになりたいばっかりで、名がいろいろと付けてある。名は教えのためじゃ。万屋太郎兵衛様はどこでございますか、ここから五軒目、ハイかたじけない。ソレ名がなければ教えられない。それを名もなしに、わしが行く所はどこでございますか。それでは根っから知られるものじゃない。家に帰って聞いてごらん、とでも言うよりしかたがない。教えのための名じゃ。その名に迷って右往左往する。誠のところに名はいらない。そこで一休の歌に、」
「釈迦といふ徒者が世に出でて多くの人を迷はするかな(釈迦といういたずら者が世に現れて、多くの人を迷わせるものよ)」
「あんまり御釈迦様が御慈悲深いあまりに、どうにかしてこの日月の親御様とお近づきにしてやりたいとお思いになって、いろいろ様々と、物にたとえ、名になぞらえて、教えを立てられた。その教えの名に迷ってうろたえる者が多い。吉田の兼好、八歳のときにこの名に疑いを起こされた。モシとと様。とと様やかか様の、とと様かか様は何と言うか。祖父様祖母様と言う。その祖父様祖母様のとと様かか様は何と言うか。曽祖父様曽祖母様と言う。その曽祖父様曽祖母様のとと様かか様は何と言うか。それであれば鶴の孫と言うから、鶴の祖父様、鶴の祖母様と言う。その鶴の祖父様、鶴の祖母様のとと様かか様は何と言うか。おおかた亀の祖父様、亀の祖母様であろうと言う。その亀の祖父様、亀の祖母様のとと様かか様は何と言うか。アアもうこの子は、わしは知らぬわい、もう名がない。名のある間は迷うことができるけれど、名がないと迷いたくても迷うことができない。それなら何もないのかと思ってはいけませんぞ。鶴の祖父様も、亀の祖母様もみな出どころがある。日月もみんな親御様がある。この親御様には名もなく形もない。それゆえ無念無心の本仏は、無形をもって体とする。不思議が体なり。思い議(はか)るべからずという字じゃ。木像や画像というのも、まだ形があるために世話が多い。火事のとき持ち出してやらなければならない。このまた不思議の尊体は、火に入れても焼けず、水に入れても腐らない。墨壺に入れておいても黒くもならない。砥石にかけても薄くもならぬ。どのようにに言うべきものか。よく考えてごらんなさい。その姿の大きさが、六十万億那由多恒河沙由旬、両眼四大海水のごとしと。大きな仏様じゃ。あんまり大きくて目にかからぬ。思慮分別も届かない、不思議の尊体。そろばんで千万年勘定しても、分量がわからぬ大きな仏だけれども、シラミの陰嚢の中にも、ケシの粒のうちにも、いっぱいに満ちて、そして小さくもならぬ。祖父祖母の身体にあってもシワも寄らず、娘や息子の身体にもいっぱい詰まってあるけれども、伽羅の油の匂いもせず。年も寄らず、若くもならず、生まれないために死にもせず、この仏と我々も同い年であることを、よく理解すれば、神仏聖人も、一切万物、あなた方も、猫も猿も心としている。万物一体。孔子の心だからといってびいどろのようでもない。熊坂の心だといって真っ黒で炭団のようでもない。悪いことをするのは、私心の勝手でするけれど、腹の中に悪いと知っているのは、この親御様がご承諾なされないのじゃ。」
「傀儡師胸にかけたる人形箱仏出そうと鬼を出そうと(人形つかいが胸にかけている人形箱からは、仏も出るし鬼も出てくる。)」
「地獄餓鬼畜生あしゆら仏菩薩何にならうとままな一念」
「一休和尚が小僧のときに、ある侍が地獄とは何かと尋ねたら、あなたがそれを聞いてどうするのか、ちょこざいな人だと、持っていた扇子で頭をピシャリと叩いた。侍はこらえかねて、にっくき小僧と刀に手をかけた。ソレソレそれが地獄じゃ。侍はそっと手をつき、ありがたい御示しと言えば、ソレソレそれがすなわち極楽じゃと仰られた。何を出そうとままな一念じゃ。今この瞬間のこの一念が大事じゃ。このふつふつと浮かぶ念というのも、何か見るか聞くかしないと出てくるものじゃない。寒いとか暑いとか、痛いとか憎いとか、腹が減ったとか、一念一念のものじゃ。一念が浮かぶとふつふつと消えていくばっかり、何にも跡も形も残るものじゃない。それをだんだん数珠つなぎにして、なぐさみものにしている。悪い癖じゃ。ヒョッと憎いと一念浮かぶと、その後から、どうしたらあいつが困るだろうか。こうしたら難儀して、謝りに来るだろうかと、向こうへばっかり、ホンホン迷って行く。その後からだんだんと消えていくことも知らず、ありもせぬ空っぽの、数珠つなぎの念にまとわりつかれて、ハアスウハアスウ。これを自縄自縛と言う。たわいもないことじゃ。一念迷えば地獄の番人が鉄の杖を振り上げる。一念開けば聖衆蓮台を傾けると言って、三世の諸仏が礼拝なさる。一念開くとは、念を捨てて我が身に立ち帰ることじゃ。なんにも難しいことはない。満足するばっかり。」
「何見ても何を聞いても有難やこの御仏の有らん限りは」
「麦ができるのも、米ができるのも、雨が降るのも、風が吹くのも、東からお日様が出られるのも、チュンチュンカアカアも、大根も茄子も、時を告げる鐘の音も、自分たった一人への御馳走と、満足してみれば、まことに胸の中は極楽世界じゃ。」
「足納をするとせぬとの胸の中地獄も有れば極楽もあり(満足をするとしないとで、胸の中は地獄にもなるし極楽にもなる)」
「有難や我本尊を開くれば森羅万象弥陀の全体」
「一切万物はたった一人への御苦労と、満足してみれば、向こうから無理を言ってくることまでありがたくなる。そのように無理なことを言ったり、したりすれば、人が憎むので、くれぐれも無理をなさらないように。お前の身代わりに、わしが憎まれてさしあげようと言うのじゃ。さてさてありがたいと御礼申し上げなければならぬ。よく心得えてくださいませ。わしはお前の身代わりに命を捨て御異見申し上げるのだから、くれぐれもお慎みなさいませとの御教化。この身代わりの御光明は拝みにくいものじゃけれど、よく考えてごらんなさい。心中身投げ首くくりまで、みな我が身代わりに命を捨て、お助けくださる御恩徳。さてもさても有難や、かたじけなやと、満足したところで、誰も叱るものはない。この心がすなわち仏ということで、心と仏と衆生と、この三つに差別はない。同じことじゃと言うけれど、イエイエしょせん我らごときが、なかなか及ばないことじゃと、ガチャっと心に鍵をかけている。それでも仏様は気が長い。その心を身に立ち帰って見よ。そのまま直に仏じゃわいと、言ってくださるのを片意地張って、イエイエ私どものような凡夫が仏とは、滅相もないとんでもないと、めったやたらにお辞儀をして逃げ回る。そのはずじゃ。ホンホンが出来ない。そのくせ陰では、ハアスウハアスウばっかりじゃ。よって、」
「何見ても何を聞いてもなさけなやただ煩悩に身を任す故」
「あれが欲しい、これが欲しいが、人の本来の役目ではないぞ。ただ今日の天命の性に従って、善心を起こしてみるがよい。ありがたいことばっかりじゃ。雨露にも濡れず、一日ひもじい思いや寒い思いもせず。この上に何があるか。御殿金殿も寝たときは一枚敷き。百千万石の御殿様でも、千石万石も食べられない。おなかいっぱいじゃ。してみればあなた方もおんなじことじゃ。何も変わったことはない。大金持ちのご隠居様が仏壇に向かい、ありがたいと思う一念も、あなた方がありがたいと満足した一念も、ありがたいに二つはない。御姫様のありがたいだからといって、梅の花の匂いもせず、乞食老婆のありがたいだからといって、砂まみれになってもいない。ただありがたいの中からでなければ、善心は起こらない。身に立ち帰ってごらんなさい。たいてい幸せな身の上じゃないか。さて、日月の親御様に、名がたくさんあるのは、みな教えのためじゃ。これもついでにたとえてお話ししましょう。私の名は道二と申します。この道二というのは通名で、それぞれの道から呼ぶときは、いろいろ様々な名が付けてある。まずわたしの息子から呼ぶときは、親父様という名がある。女房からは夫と言う。またうちの人とも言う。親の道からは、私を息子と言う。兄からは弟と言い、弟からは兄貴と言う。君の道からは臣と言い、家来からは主君と言う。道という名はひとまとめにした名で、それぞれの道からは、いろいろと名が変わる。人の本心(本来の心)を、金剛にたとえたところからは、金剛経と言う。目には色を見て、耳には音を聞く方からは、観音とも、普門品とも言い、蓮華にたとえて説くときは、妙法蓮華と言う。または弥陀と名を変え、その道から言うときは、この経よりも他に尊いものはないと言っている。そのはずじゃ。たった一つでおんなじ代物じゃ。さて、この経というのは、常ということで、常とは、いにしえの聖人や、仏菩薩の教えられた言葉も、またこれから後の世に聖人仏菩薩が現れて説かれたとしても、親に不孝にせよ、主人に不忠をせよとは教えない。諸の悪を作るな。衆善を行えと説かれるのが、諸仏の通戒である。みな三教ともに本心に従い、五倫の道を勤め行うという教えである。これが万古不易、常住の御経である。しかし、御経と言えば難しく、聞こえにくい。ここに無上霊宝、甚深微妙、無類飛切りの御経がある。そしてちんぷんかんぷんのわかりにくいものではない。読みさえすれば意味もわかり、たちまちにご利益がある。どなた様へも私が授けましょう。よく覚えて帰ってくだされ。」
「一つ、親子兄弟夫婦をはじめ、諸親類と親しくし、下人等にいたるまで、これを憐れむべし。主人がある者は、各々その奉公に精を出すべきこと。」
「これがすなわち今日の天命、この他に人の道はない。尊い天上じゃ。なんと経は尊いものじゃないか。このありがたさを身に立ち帰って知るのじゃ。聖人神仏の教えもみな心のたとえ。八千余巻も一切の書物も性(本来の心)のたとえ、それで何の如し、また何の如し、この「如し如し」と言うのは、比喩ということじゃ。まことのことは口では言えない。文字には書けない。蓮師の歌に、」
「法華経は寝乱れ髪にさも似たりとくにとかれずいふにいはれず(法華経は寝乱れた髪によく似ている。とくことも、ゆうことも難しい)」
「口で言うともう違う。砂糖を舐めれば甘い。唐辛子を食えば辛い。この辛いことを知らない人が聞いている。モシ唐辛子の辛味は、どんなものでございましょうか、ハイ唐辛子の辛味は、どうにも口では言えないが、辛いのをたとえてみれば、舌がピリピリするような、と答える。それを知らない人にはたとえて言って聞かせるより他にしょうがない。それで辛いのは舌がピリピリすると覚えている。また他の人に聞いてみる。モシ唐辛子の辛味はどんなものじゃ、今度は唐辛子を食って辛いのは、頭がカッカとして、涙がこぼれるような、と答える。そこで辛いというのは頭がカッカとすることと思い、また舌がピリピリすることと思い、どちらが本当なのか、ハテ怪しいことじゃと迷い出す。ソレ口で言えばもう違う。人に聞いてもしっかり理解することはできない。仏様の説法もそのようなもので、いろいろ様々にたとえてある。そのたとえに取り付き、名に迷い形に迷って、うろうろとさまよう。その人に唐辛子を食べさせればそのままに知ることができる。なるほど辛いというのはこのことじゃと納得する。本心(本来の心)を知るというのもそれと同じで、食べてみなければ本当の味わいがわからない。それを食べてもいないのに、どうのこうのどうのこうの、小言ばっかり言っている。ピリピリとカッカとで迷っているのじゃ。誰でも身体の本来の形は知っている。焼けば灰になり、埋めれば土となる。当たり前のことだけれど、肝心の心の本来のあり方がわからない。それによって身体が邪魔になって、みな迷うことになる。どうかこの一つだけは知っていただきたい。これは銭金が要るということではないし、本来の心を知ることは大変に善いことなので、手間暇かけてこのようにお世話なさるのだから、こればっかりは知っておいた方がよい。何も難しいことじゃない。自分に我のないことを知るのじゃ。これが人の腹の中を知るということではなく、自分の手で自分の腹の中を吟味するのじゃ。とっくりと腹の中を吟味してよく考えてみると、本心と私心と二つあるようでとても紛らわしい。このわからない間を天邪鬼と言って、山へ行こうと言うと海へ行こうと言う。川へ行こうと言うと里へ行こうと言って、まごつかせる。天を邪(よこしま)に見ているから、天邪鬼と言う。一家親類知人の中に、貧しくて困っている人を、少しずつでも助けを施して救おうとすれば、やめたほうがいい、そのようにしてはお盆や正月が面白くない。第一癖になって悪いと言って抑える。なるほどこれはもっともなことじゃ。一生懸命に物を始末して、常に無駄な物を買うことがないよう家内を見張って治めなければならないと思えば、気が詰まってたまったものじゃない。時々は酒も飲み、芝居も見たり、旅行にも行き、気を養わなければ病気になる。命あっての浮世じゃ。たとえ銭金ができたとしても、世間で乞食のように言われて、生きているのも虚しいことじゃないか。イヤイヤそうではない。世間からどのように言われたとしても、貧乏の足しにはならず、とにかく銭金さえできたら、いつ顔を張ろうと思いのままじゃと、腹の中の競り合い。両方ながらもっともらしいようでもあり、どちらが本当か、とんとわからない。与勘平(狐が与勘平に化けた話)じゃ。我が俺か、おのれが我かと、化かされっぱなしじゃ。芝居でする与勘平は、狐でも忠義者じゃけれど、あなた方のは人欲の与勘平じゃによって、騙しぬきおる。ピリピリでございますだの、カッカでございますだの、何も知らないのが虚空だの、天ばかりで我はないだのと、しゃべりぬきおる口達者じゃ。難儀なものじゃ。本心の与勘平はものを言わず、なんにも言いやしない。知らん顔してあほうのように見えるけれど、些細な物事を見て万事に応じるので、根っから世話いらず。そこで人欲の与勘平にとんと用がないようになってくると、いつの間にやら、じわじわと消えてしまう。そうすると本心の与勘平ばかりになって、今日我が身に備わっている道が大切になって、主人や親がありがたく、あなた方の日々の仕事はなおありがたいことがわかってくると、筵(むしろ)の上でも満足して、自分の家業が大事になり、いよいよ子孫長久の御祈祷じゃ。結構なものですぞ。人はこのホンホンさえやむと、ハアスウハアスウもないようになり、大酒を飲んだり、勝負事をしたりすることが、役に立たないということがわかる。大変ありがたいものじゃないか。このまた勝負事はさせる人がある。銭金をたくさん持っていながら、けちん坊の柿の種、慈悲も情も知らぬ、石部金吉かなさいぼうという人があるものじゃ。そのような小人に銭金をたくさん持たせると、欲に欲を積み重ね、らちもないことを思いついて、売り売り買い買い、世界ののど締め、それから首絞りと、いろいろ様々な難儀が出来る。金硝目に入って翳(かげ)をなすと言って、金ほどよいものはないけれども、金の粉が目に入ると盲目になる。小人の金持ちは金がかえって毒となる。」
「欲深き人の心と降る雪は積るにつけて道を忘るる」
「足ることを知る心こそ宝船物の数々積置かずとも」
「それを散々積み蓄えたがるので、何と言っても金がいる。金がなければどうにもならぬと、ハアスウハアスウ。みな癇癪持ちの病になって、人のすることがことごとく気に入らない。そういう人が本来の心に回復することは難しい。町家でも百姓でも少々の蓄えがあると、天にも地にも自分のような者はいないと思って、めったやたらに高ぶり、俺は金持ちじゃ、端へ寄れ寄れと言って歩きたい。おかしな病気じゃ。どのようにしたとしても、町人は町人じゃ。鍋銭でも文銭でも、一文の他に通用はできない。愚かな人と夏の虫は、飛んで火に入る、火宅の苦しみ。みなポンポンが過ぎるために、頓死頓病、駆け落ち身投げ、首くくりも心中も、みな心が暗いからじゃ。」
「暗きより暗き道にぞ入りぬべし遙に照らせ山の端の月(心が暗いと暗い道に入ってしまう。山の端の月よ、はるかに照らしたまえ。)」
「いにしえの明徳を、天下に明らかにしようと思うならば、まず本心(本来の心)を知るべきじゃ。それを知ることができれば、こころばえが誠になる。こころばえが誠になると、人との和合の道がととのう。和合さえすりゃ、家内安全子孫長久。この他に教えはいらない。天下泰平の他は学問もいらない。」
「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても家内安全(心さえ誠の道にかなっていれば、祈らなくても家内は安全である)」
「子孫長久の学問じゃ。天下泰平の他に誠はない。誠は人の心である。嘘は我が身の誠を押さえつけるものじゃ。金銀財宝は宝とするべきほどのものではない。楚国においてはそれを宝とすることはなかった。ただ善をもって宝としたのじゃ。」
「さまざまの教はあれど悪を止め善をするより外に道なし」
「善をするとは、何か報酬をあてにしてする善は役に立たない。ただ今日の自分たちの道を全うし勤めているのが、善を行うということじゃ。」
「道といふ詞に迷ふことなかれ朝夕をのが為す業と知れ(道という名に迷うことのないように。それは自らが朝夕行う仕事のことなのだと知るべきだ)」
「それをみな名に迷い形に迷い、説明書ばかり読んで、向こうへは行かずに、子曰くだとか、何屋何兵衛がこう言っただとか、なんの利益もないことじゃ。一切の経文、一切の書物は、自分の本心(本来の心)を知るための説明書じゃ。明徳を明らかにするためのはしごじゃ。屋根に登るにははしごでなければ登ることができない。屋根に上がればはしごはもういらない。それなのに屋根の上で長いはしごをぶらぶら振り回して、危ないことじゃ。けが人が出ると言うのも聞かず、鼻ばかり高くして、子曰く、何屋何兵衛、説明書ばかり読んでいる。そのかたわらでは釈迦如来が強いだの、阿弥陀様の勝ちだのと、自慢するのを、神道者が聞いて、なんと勿体ない、我が神国を汚す夷狄の法、払いたまえ清めたまえ。と鈴を振り立てる。また一方では、法華は箒(はたき)で叩かれる。門徒は門を鎖められた。浄土は錠をおろされたと、名ばかりで競り合いをしている。肝心の本家はケロリとしていらっしゃるのに、何の争いだか、わけがわからぬ。」
「さっぱりと埒の明いたる世の中に埒を明けぬは迷ひなりけり(世の中は本来さっぱりとした明るいものなのに、埒が明かないように思うのは迷いである)」
「何の役にも立たない言い争いはやめて、ただ今日の天命を大切に勤め行うことが、性(本来の心)に従うということであり、これを道と呼ぶ。ある書に、神道の正直をもって、仏の戒行を保てば、儒の五倫五常は守られるとあるところのものである。」
(以下私見)
この世を地獄と見るのも極楽と見るのも自分の心次第。。心を澄ませて日々の勤めを行うのみですな。。