石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(二)
(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)
「孝の道を問う」
(ある者)
「私は若い頃は、右も左も分からず、親不孝なこともいろいろしてきたけれども、中年になってからは、孝行の心も出てきて、何の不孝もしていない。随分と精一杯孝行に努めてきたけれども、これぐらいの孝行は、世間にも普通に有ることなので、天下に誰と、有名になるぐらいの孝行を務めてみたい。どのようにしたら良いか。」
(梅岩)
「父母の心に逆らわず、顔色を温和にして、親の心を痛めないように仕えれば、孝行と言うべきだ。」
(ある者)
「父母の心に逆らわず、顔色を温和にすることは、簡単に務まることだ。たとえそれをよく行ったとしても、家の中でのことなので、それで有名になることはない。私が言うのは、他人の目にもはっきりと目立つぐらいの孝行がしてみたいのだ。」
(梅岩)
「あなたが言うのは世間への見栄であって、真実をもって父母に仕えるというものではない。世間への見栄があれば、利欲も多いことだろう。名誉や利益を欲する心が強い者は、必ず仁義の心が薄い。孝行は仁義の心から為すものである。有子曰く、「君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちて道なる」。根本がすでに立っているときは、その道は自ずから成る。「本」というのは、親に仕えるということである。有名になりたいというのは名誉を喜ぶということだ。自分の名前に執着する者が、どうやって孝行を知るというのか。あなたは、「父母の心に逆らうことはない」と言う。しかし、去年の暮れに(あなたの)伯父が、(あなたに)少々のお金を借りに来たところ、ご両親は貸しても良いと仰ったのに、あなたは納得せず少しも貸さなかったので、ご両親は困り、「今後、他の事は当分の間倹約するから、今回は貸してあげてくれ」と再三仰ったけれども、あなたは聞き分けなくついに貸さなかった。その時もあなたの顔色は温和だっただろうか。人と争うときは、温和にならないものだ。それでも逆らわないことと温和との二つを、簡単に務まると言うのは、どういうことか。」
(ある者)
孝教に、「父に争う子がいるときは、不義に陥らない。故に不義に当たっては、父と争わざるを得ない」とある。争うときにどうやって温和でいられるものか。父母に不義がある時に争うことは、聖人といえどもあることだ。私の争いもこれに倣ったものだ。去年の冬に伯父がお金を借りに来たとき、親たちが貸したいと思ったということは、不義である。伯父も以前とは違い、暮らしも貧しく、いつ返してくれるかも分からない。その返すあてもないところへ、それでも貸せというのは、筋が通らない話である。このような不義を言うときは、親といえども争わざるを得ない。父母がどのように言おうとも、家に害のある事は承知できない。私が貸さなかったのは、後々親に不自由をさせないためである。家に損があることを我慢し、親たちに従うのは、親に甘い毒を食わせるようなものだ。その毒を与えなかったのだから、これが本当の孝行というものだ。そのうえ衣類や食べ物は望み通りにさせ、遊興やお参り等、気の向くままにさせているのだから、大概の孝行はしているつもりだ。ただし雪の中からタケノコを抜くほどの特別なことをしているわけではないから、孝行の至りとは言えないだろうが。」
(梅岩)
「あなたも少しは学問をしてきたと見えて、孝教を引用するといえども、ことごとく解釈が間違っている。「父に争う子がいるときは、不義に陥らない」というのは、親が道を外れ、欲悪はなはだしく、君主を殺したり、国を奪ったり、下々においては盗みなどをする、そういう大きな不義のある時には、善に移すために親と争うのである。あなたの行為は、ご両親に仁義の心があって人を救おうとするのを、自分の不仁不義をもって、拒み争うというものだ。子としては親を善に導くべきなのに、かえって悪道に陥れているのではないか。あなたのように本を読む者も、学問をする者と言うのであれば、世の人は学問は不仁の本(もと)であると思ってしまうだろう。そうなればあなたは学問を廃する罪人である。元来、世間には本を読むことのみを学問と思い、本の心を知らないので、あなたのように間違って解釈してしまうことが多い。全て教書は聖人の心である。聖人の心も我々の心も、心は古今において一つである。その心を知って本を読むときは、本の意味は、手のひらを見るかのように容易く理解することができる。あなたの言うのはことごとく不義である。ご両親の心は義にかなっている。兄弟を助けたいという志は、当然のことだ。伯父は親同然なのだから、たとえ両親ともに「貸すことは許さない」と言われたとしても、両親へお願いをして、少しのお金を工面して貸したり与えたりして伯父を助けるべきところを、かえって親の志に背くのは、親をないがしろにする罪人である。その罪を知らないで、孝行をしているなどと言う。その愚かさは論じるに足りない。」
(ある者)
「あなたが言うことには理解できないところがある。世間を見てみれば、倹約して家業に精を出し、金銀を持ち、父母に不自由をさせないように養えば、たとえ親類に困っている人がいようとも、不孝者とは呼ばず、身持ちの良い者と呼ぶ。それなのにあなたは彼らもみな悪人で、不孝者だと言うのか。」
(梅岩)
「そういう人たちは、世間並みの人だと思うけれども、親に仕える道は全く知らない者たちである。あなたは本を読んでいながら、本を読んでいない愚かな人たちを手本とするから、父母に仕える道を知らないのだ。(中略)曾子のような人は親の前では犬や馬でさえ叱ったりしなかった。それなのにあなたは、ただ養うことだけを孝行だと思っている。(中略)父母に仕える道は、愛と敬の二つである。愛は慈しみ愛する心である。敬は慎み敬う心である。それなのにあなたは、父母の願いを拒んで父母の心を傷つけている。心を傷つけるのは、愛の心がないからだ。父母の願いを拒むのは、敬の心がないからだ。愛敬の心がなければ鳥獣と同じである。あなたは有名になるほどの孝行とは何かと聞いたが、聖人賢人の考えを聞こうと思うなら、早く愛敬の心を知るべきだ。愛敬の心を知ることができれば、聖人賢人の孝行にも至るであろう。」
(ある者)
「私が聞いているのは親孝行についてである。それを差し置いて、まず心を知るべきだというのはどういうことか。」
(梅岩)
「あなたは、親の言うことでも家に損のあることには従えないと言う。従わないということは親に逆らうということである。親に逆らうということよりも大きな不孝はない。それでいて、父母を不自由しないように養うというのは辻褄が合わない。これは心がまだ暗く、是非が分からないからである。私が言うところはことごとく親に仕える道であるけれども、あなたは理解することができない。これは心をまだ知らないからである。よってまず心を知るべきだと言うのである。」
(ある者)
「損のあることに従えば、先祖代々の家を潰すことにもなりかねない。ここが是非や善悪の分かれるところである。それなのに是非を知らないと言うのはどういうことか。」
(梅岩)
「あなたの言うところは、一つとして是非が分かれていない。是非を論じるのは他人のことである。父母に対しては是非を論じるものではない。あなたの父母は世間に対して悪いことをしようとしているわけではない。親類を救いたいという仁愛があることを知らないで、かえって親を不義の人と呼ぶのは悲しいことだ。今のあなたの財産は親から譲り受けたものか、それとも自分で稼いで、父母を養っているのか。」
(ある者)
「あなたも知っている通り、親から譲り受けた財産のほかに、私の財産というものはない。」
(梅岩)
「それほどの財産を譲られた父母に、少々の出費があったとしても、家が潰れるほどのことにはならないだろう。親の財産なのであれば、たとえ使い捨てられても心任せにさせるべきだ。もし財産が尽きたとしたら、何の仕事をしてでも一生懸命働いて養うべきである。もしここにある人がいて、「自分の身を捨て苦労して得た財産なのだから、父母を養うことはしない」と言って、親を飢えさせたり凍えさせたりする者がいたら、「これはもっともなことだ」とあなたの心が許すだろうか。」
(ある者)
「いや、自分の財産にて養うことはしないと言って、父母を飢えさせ凍えさせる者は、人とは言えない。」
(梅岩)
「あなたも人の是非を知っていることは明らかである。それなのに、親の財産を親の心に任せて使わせないというのは、どういうことか。(中略)元来あなたの身は親の身であるのだから、親が自分の財産を使いたいように使い、売りたければ売って使ってしまっても、あなたに何も言い分はないはずである。親の財産をもって父母を養い、その余りを我が身の養いのあてにする心があるのであれば、父母の短命を期待しているのと同じである。その気持ちが心の中にあるときは、必ず外にも出てくるものであって、父母の心を痛めることが多くなるであろう。医書に「百病は気より生じる」と書かれている。これをもってみれば、父母の心を痛めるほどの不孝はないだろう。(中略)あなたは少々のお金のことで父母の言うことに逆らい、自分の欲心をもって、親の心を痛めている。聖人賢人の孝行より、あなたのやっている事を見れば、木や石と変わらない(人の道ではない)。帰ってよく考えてみなさい。」