石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(四)
(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)
「商人の道を問う」
(ある商人)
「売買を常に我が身の所作としているけれども、商人の道にかなうというところの意味がどうにもよくわからない。どういうところを主として、商売をしていったらいいのか。」
(梅岩)
「商人の起源はと言えば、昔は、誰かの余っている物を誰かの足りない物に変えて、お互いに通用することをもって本(もと)とすると聞いたことがある。商人は計算を正しくして、その日その日の経営をしていく者なのだから、たとえ一銭のお金であっても軽いと言うべきではない。一銭のお金を重ねていって富をなすのが商人の道である。富の主(あるじ)は天下の人々である。主の心も我が心と同じであるから、一銭を惜しむ心をもって売り物に念を入れ、少しも粗相のないように売り渡せば、買う人も始めは金銭を惜しむ気持ちがあっても、品物の良さをもって、その惜しむ心は自ずと止むことだろう。惜しむ心を止め、善い心に戻すのだからこれは道にかなっている。そのうえ天下の財宝を通用して、万民の心を安んじるのであるから、「天地四時(四季)流行し、万物養われる」のと同じで天地の理にかなっている。このようにして富が山のようになったとしても、欲心とは言うべきではない。欲心なくして一銭の消費を惜しみ、青砥左衛門が十銭を川に落とし、これを惜しんで五十銭を人足に出して探させた、その心を味わうべきだ。このようであれば天下の倹約令にもかない、天命にかなって幸福を得るだろう。幸福を得て万民の心を安んじるのであれば、天下の大御宝(おおみたから)というものであって、常に天下泰平を祈るのと同じことである。天下の法を守って、我が身を慎むべきだ。商人と言っても聖人の道を知らなければ、同じく金銭を儲けながらも不義の金銭を儲け、子孫が絶えるということに至るであろう。本当に子孫を愛しているのであれば、道を学んで栄えるということを為すべきである。」