中沢道二「道二翁道話」を読む(十四)

(岩波文庫の原文を現代語訳しています)

「道二翁道話二篇巻上」

「道は一瞬でも離れるべきではない。離れるべきものは道ではない。今このように道、道と言っているが、どこに道らしいものがあるか。道は朝から晩まで顕(あらわ)れきってあるけれど、心学の助けがないとまったく見えない。道は上下に明らかである。誰が起こしもしないけれど、夜が明けると、チュンチュンカアカア、スズメはスズメの道、カラスはカラスの道、犬は犬の道、猫は猫の道、フナはフナの道、鯉は鯉の道、クジラはクジラの道、少しも道から外れる者はない。その他草木に至るまで、柿の木は柿の木の道、栗の木は栗の木の道、柳は緑、花は紅(くれない)。各々が道の通りを勤め行って、少しも道に背く者はない。万物一体、道の他に教えもなく、教えの他に道もなし。人には人の道があって、五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)五常(仁義礼智信)の他に人はいない。そもそも母の胎内に、一滴の水が宿るや否や、道はシャンと備わりきってあるけれど、悲しいことじゃ。「生まれ子が次第次第に知恵づきて仏に遠くなるぞかなしき」じゃ。小さい時には、とと様かか様と言って付き慕い、とと様かか様がちょっとの間でも見えないと、オロオロして尋ね回った。そのはずじゃ。父母の他に心はない。父母ばっかりじゃ。これは生まれる前からの、天地自然の生まれつきというもので、すなわちこれが道じゃ。それが次第次第に知恵づいて、仏に遠くなるぞかなしきとは、その生まれつきの道を離れてしまうからで、鬼となることこそ恐ろしいことだ。その道から離れるのはなぜかと言うと、ただ物事に執着するからじゃ。執着とは物に取られることじゃ。放心するのじゃ。放心とは、向こう(物事)へコロリと心を取り放して、こちらはお留守。それゆえ見るに取られ、聞くに取られ、目が開くとあれが欲しい、これが欲しいと、見るもの触るものに取られきっている。道は一瞬でも離れるべきではない、離れるべきものは道ではない。道とはなんじゃ。心のことじゃ。神道というのも心のこと、仏道というのも、儒道というのも、心のことじゃ。儒道では放心と言う。仏教では迷いと言う。放心と言うより、迷いと言った方が、子どもたちや女の方々が聞き慣れているので、迷いと言う方が分かりやすい。さてこの教えというのは、何にも他のことではない。この迷いということがあるために、聖人や仏がこの教えを立てられたものじゃ。この教えじゃとて、神仏聖人がお作りになったわけでもない。天地自然の道には、迷いということがないことをお知りになったので、その道理を教えられるのじゃ。迷いがなければ教えはいらない。一切万物畜類鳥類草木に至るまで、天から受け得た通りの道を勤め行っているので、迷いはない。ただ気の毒なものは人じゃ。それぞれの道を行けばよいけれど、道もないところへ行こうとするので、とんでもないことが起こる。本当の道を行けば怪我をしないのに、がけ道やいばらの道やら、行けもしないところへ無理に行こうとする。堀も淵もあるけれど、その難所が目に入らない。危ういことの天上じゃ。そんなことは誰でも知っていると思っているかもしれないが、知らないのじゃ。知らないことの証拠を言って聞かせましょう。わしは今年の何月何日に死ぬということを、知った者は一人もいない。わしは今年の何月何日に家出する、何月何日に駆け落ちする、身投げする、首をくくる、心中するということを知った者は一人もいやしない。知らないからこそ、毎年毎年いろいろ様々なことが起こるじゃないか。みなうかうかして覚悟がないからじゃ。君子はこの覚悟をなさるので、日々新たに恐れて慎む。恐る恐るの慎みが厚いので、怪我がない。この怪我のもとはと言えば、迷いからじゃ。その迷いを例えてみれば、夏になると、アブという虫が窓からか表からか、ついと入って座敷の障子でポンポン音を立てている。明るいので向こうへ行けると思って、ポンポンと道もないところへ行こうとする。立ち帰れば何のことはないのに、その立ち帰ることを知らないのじゃ。聖人の教えはこの立ち帰ることばっかり。去年も江戸で十一歳になる子が、前訓(心学の子育て書)を聞いて、立ち帰ることを知った。その子が何気なく遊んでいたら、駕籠かきがハイハイ言って駕籠をかついで来た。その子は何にも知らずにいたら、駕籠かきが杖で子の背中をしたたかに叩いた。その子は大いに腹が立ったけれども、いやいやここが話に聞いた堪忍のしどころじゃと、じっとこらえ、身に立ち帰ってみれば、何のことはない、腹が立ったのがおさまった。それから家に戻って、親御様にその立ち帰ったことを話したら、親御様は大いに喜んで、全く前訓を聞いたおかげで、こんな風になったんですよと、人々にも吹聴して喜んでいらっしゃった。その子は一生災難の種が消えてしまったと言って、私も喜びました。一切のことが立ち帰ってみれば、向こうに悪いことはない。」

「我よきに人の悪きがあるものか人のあしきは我あしきなり(自分がよくて他人が悪いということがあるものか、人が悪く思えるのは自分が悪いからである)」。

「みな我が身に立ち帰らないので、主人を恨み親を恨み、ついには家を失い身を滅ぼす。大変なことじゃ。みな自分たちの身に帰り見て、腹の中に覚えがあるなら、懺悔をされるがよい。懺悔の功徳はすべての罪業が消滅すると、仏様の説かれたことに嘘はないのだから、身に帰り見てお詫びをされるがよい。身に悪行さえなければ、懺悔は必要ないけれども、悪行のない人という者もないものじゃ。朝から晩まで見ると聞くの二つから始まる。五塵(色声香味触)の中でも、見聞の二つを深く戒めてある。目と耳とからポンポンが起こる。よく寝た時はポンポンはない。寝たときにどこにポンポンがあるか。寝たときはまるで仏様じゃ。盗人が入って、何やかんや取っては担いで出て行くけれども、知らん顔して、見ない顔をしている。ありがたいことじゃ。無心無念の本体じゃ。とっくり拝んでご覧なさい。このときは三千世界もなく、天地もない、実相無漏の大海じゃ。乞食の詠んだ歌に、」

「寝る間のみ人にかわらぬ思ひ出をうき世にかへす暁の鐘(寝ている間は世間の人と変わらない境遇なのに、朝の鐘を聞くとまたこの世に戻されてしまう)」

「寝たときに何があるか。釈迦も孔子もない。熊坂長範もない。犬も猫もぐうぐうばっかり。十万石も百万石もない。御殿金殿もない。金銀財宝も宮も藁屋も、エタも乞食も、ぐうぐうは同じことじゃ。寝た姿を外から見れば違いはある。あるいは親子ともに寝ている。母親もあり、乳飲み子もあり、外から見ても、寝ている者は何にも知らない。ものの見事に消えている。少しも俺が俺がはない。天地同根同性まるで我なし。虚空同体。この時初めてあらゆる人々は本来成仏であることを知る。よく考えてごらんなさい。これは尊いお姿じゃ。さて目が開くと、浮世にかえす暁の鐘。鐘がゴーンとなるとそのまま今日のこの世界が道じゃ。スズメはスズメの道、カラスはカラスの道、チュンチュンカアカア。柿の木に柿ができ、栗の木に栗ができる。この他に道はないぞ。神道というのも仏道というのも儒道というのもこのことじゃ。観見法界(仏となって世界を見れば)草木や国土はことごとくみな成仏と言う。天地の間に成仏しないものが何かあるか。禽獣草木に至るまでことごとくみな成仏。この性命(性質やはたらき)を正しくして、その分限に従い、君子は位に素して(与えられた環境で淡々と)行い、他に何も願わない。商売が合わないと言って、春に咲かずにいた梅もなく、米が高いと言って顔をしかめた鶏もなく、季節の変わり目に銭が足りないと言って夜逃げした犬もない。難病平癒のために西国四国を回るタヌキもなければ、不幸で従弟の親類を訪ね回って、金をたかりに行くウワバミもない。みな天命に従って、分外を願い求めないので、一切世話はいらず、成仏しないものに何があるか。人ばっかりが成仏せずにいる。このような情けないことがどこにあるものか。実相無漏の大海に五塵六欲(異性に対する欲)の風は吹かないけれども、随縁真如(不変である真如が縁に随って様々な現れ方をすること)の波が立たない日もないと、目が開くと随縁と言って、見るにつけ聞くにつけ、あれが欲しい、これが欲しいと迷いだす。悲しいことじゃ。みな目が覚めないからですぞ。この迷いを立ち帰らせようばっかりの教え、立ち帰るとそのままで道じゃ。立ち帰ることを知らないがゆえの教えじゃ。仏教で火宅と言うのも、また八万四千の地獄と言うのも、このハアスウハアスウのことじゃ。目が開くと、あれが欲しいこれが欲しい、どうしたいこうしたい、春はどうしよう秋はどうしよう、子供の行く末はどうなるだろう、何と言っても金がいる。金がなければどうにもならぬ。このことに三年前に気がついていたら今の苦労はしなくても良かったと、死んだ子の年まで数えて、後へもポンポン、先へもポンポン。これを八万四千の地獄と言う。極楽というのは、たった一つで助かるばっかり、立ち帰るばっかり。立ち帰って見ると、むしろの上も極楽世界。また立ち帰ることがないと、御殿金殿もハアスウハアスウ苦しみ、朝から晩まで八万四千の地獄まわり。縮緬羽二重に巻かれて、結構な座敷で給仕をさせて飯を食いながら、青い顔をしている強欲な者たち。みなポンポンしすぎた者じゃぞ。アブがあんまりポンポンして、ポンポンしすぎてくたびれて、ついには仰向けになって、バタバタしている。これらはまだよい方じゃ。もっとひどいのになると、ハアスウハアスウ言う拍子に、火の中にぽいと飛び込んでしまう。火傷せずにはいられない。愚かな人は夏の虫のように飛んで火に入る、火宅の苦しみ。みなおのれの手に飛び込むのじゃ。怖いことじゃ。西行の歌に、」

「来てみればここも火宅の内なるに何住よしと人のいふらん(来てみればここも火宅の一つなのに、なぜ住みよいと人は言うのだろう)」

「明神様の返歌に、」

「よしあしと思ふ心をふり捨ててただ何となく住まばすみよし(良し悪しと思う心を捨てて、ただ何となく住めば住みよいものだ)」

「この住みよしとはどこのことじゃ。外にはない。みな各々の胸の中が住よし様。親子兄弟夫婦もともに、一家親類睦まじく、家内和合住みよい暮らし。この住みよし様を知らないので、ああだこうだと言い争って、住みにくい火宅にしている。もったいないことですぞ。もういい加減に、ポンポンはやめておいた方がよい。」

「鳴子をば己が羽風におどろきて心とさわぐ村雀かな(自らの羽の音で鳴子を鳴らし、その音で心が騒ぐスズメかな)」
「傀儡師胸にかけたる人形箱仏出そうと鬼を出そうと(人形つかいが胸にかけている人形箱からは、仏も出るし鬼も出てくる)」

「やりやすくて楽なことを嫌って、難しくて苦しい方を楽しみだと思って、気を張って勤めているのが世の人の常じゃ。孟子は、「不仁の者とはともに語ることはできない。不仁の者は、危険なものを安全だとし、災いを利益とし、自らを滅ぼすものを楽しみとする」と言っている。これが世の人が楽しみとするところであって、悲しいことじゃ。みな災いを利益だと思って、我が身を滅ぼすことを楽しみとしている。これを例えてみれば、盗人が家の壁を切るときに、中の様子を考え、どうか目が覚めなければよいがと、自分でも悪いということは知っているので、ブルブル震えている。どうにかこうにかうまく切り終えることができた、ああ嬉しいと喜ぶ。これがみな災いを利益として、身を滅ぼすものを楽しむというものじゃ。さて、それからまたそろそろと忍び入って、戸棚に鍵がかかっているのをひねくり回し、どうか気づかれないといいがと、震え震えて鍵もとうとう外し、ああ嬉しい嬉しい。みな災いを利益とするものじゃ。これから外へ持ち出すのをどうか気づかれないようにと、抜き足差し足そろそろ表へうまく出た。ああ嬉しい、このとき自分の首がコロリと落ちているのも知らず、ああ嬉しい嬉しいと、我が身を滅ぼすものを楽しみとするのじゃ。何とまあどうしようもないことか。これは盗人ばかりのことではありませんぞ。高利を取ってはああ嬉しい、傷物をうまく売りつけてはよしよし、人目をうまく掠めてはああ嬉しい、相手の難儀はかまわず自分さえよければまずよしよし。すっかり災いを利益として、身を滅ぼすものを楽しみとしている。みながけ道や堀の中にはまるのじゃ。それを哀れに思って、ヤレ立ち帰れ、ソレがけ道じゃ、ソレはまるぞという、神道仏道の教え、聖人君子も涙をこぼしてお世話なさる。すなわちこれが教えじゃ。聖人の教えは子孫長久の道より他はない。世間の人の目から見れば、はなはだ寂しい。それゆえこの大道を行く人がいない。歌に、」

「人多き人の中にも人ぞなき人になれ人人となせ人(多くの人の中にも人としての道を行う人がいない。人よ、人になれ。人よ、人としての道を行え)」

「君子の大道は行く人が少ない。とかくがけ道や堀の方へは行く人が多い。そのはずじゃ、賑やかで友達が多い。またそのがけ道には色々様々なものが並べてある。まず一番に、鍋焼き貝焼きすっぽん汁、うまいものばっかりじゃ。そのうえ美しいとうろう鬢の芸妓やら、舞妓やら、太鼓持ちやら、役者やら、ひんひんかんかんどんどんと、賑やかにして、飲めや歌えや一寸先は闇の夜。わいわいのわいとさ。一向に役に立たない。一寸先どころじゃない。まるで闇じゃ。そこで不忠不孝身投げ心中首くくりと、だんだん値打ちの高いがけ道へ、コロリコロリと落ちていく。誰もが知っていることのようだけれども、みなこのがけ道を好ましく思ってしまう。これはみなポンポンから起こる。そのポンポンの元は、見ると聞くの二つから。ゆえに君子はその見えないところを戒め慎み、聞こえないところを怖がり恐れる。このように言うと、芝居も見てはいけないのか、酒を飲んでもいけないのか、茶屋へ行くこともいけないのかと思うが、そのような不自由なことじゃない。君子の大道は、公にして狭いものではない。酒も飲んだらよい、遊所へも行ったらよい。楽しみに行くところにしたものじゃもの、そのほどほどに楽しむがよい。それを苦しむのが間違いじゃ。みな酒や遊所の用い方が悪いからじゃ。聖人の道は和するのが道じゃ。和するというのは、その分限を越えずに、ほどよくほどよく執り行い、世界と仲良しで暮らすのじゃ。だからこそ常が大切じゃ。ただ常を慎み恐れることが肝要じゃ。みなよく言うことじゃ。ふとした出来心で大きな災難に遭ったなどと。出来心なんてものがどこにあるものか。三界唯一心(すべては唯一の心から発生する)。「天は何を言うだろうか。四季は運行し、万物は生成する」と言う。この心というのは、ついとかちょっととか、そういう小細工でできるものじゃない。それを俺が俺がで俺のものにしている。だからこそ、道を聞かなければならない。どれほど良い人でも道がないと、出来心というものが身を滅ぼす。怖いものじゃ。わしは悪いことはせず、無理はせず、商売には精を出す、親たちは養う、この他に教えはいらない、別に聞くことはない、これでよいと、自分ばっかり納得して、ガチャっと心に鍵をかけている人があるものじゃ。これがどうにもならない。孔子でも釈迦でも、これでよいということはない。心の馬の手綱を緩めるな。戦々恐々、日々新たに、また日に新たなり。これでよいということはない。それなのに、手綱無しの馬に乗り歩くので、どこに行くかわからない。危ないことじゃ。道は一瞬でも離れるべきではない。引き留める手綱がないと、どのようなことが起こるかわからない。だからこそ、常に稽古をしておかなければいけない。本心(本来の心)を知らないでいると、可愛いと言っては心を取られ、憎いと言っては心を取られ、若い衆はとりわけて、可愛いと言うことに心を取られる者が多い。どこの国の者やらわからない人を大切にして、住吉へ連れて参ったり、妙見山に通し駕籠で連れて参ったり、遊覧船で花火をして見せたり、その仕舞いには勘当を受けたり、駆け落ちしたり、心中したり、首をくくったり、これらはあまりにも心を取られすぎというものじゃ。だからこそ道を心得なければならない。大切なことじゃ。どんな偉い方々でも、この道というものがないと心を取られやすい。傾城とは城を傾けると言って、昔からいくらでも家や国が傾けられてきた。みな可愛いに取られたり、嬉しいに取られたり、憎いと言っては取られたり。北条時代の塩治という方は、ちょっとの間の我慢ができなかった。たばこ一服呑む間、引き留める手綱がなかったために、一家中はちりぢりバラバラで難儀する。取るに足らないことで口論をして口での言い合い、たとえ大勢の人の前でどれほど恥をかかされたとしても、善悪邪正は天地に明らかなことであったのに、惜しいことじゃ。だからこそ、常が大事じゃ。常に大事を極めておかなければならない。あなた方の腹の中にも、心中も身投げも首くくりもある。間男も盗人もあるぞ。孔子も釈迦も、身体のある間はみな腹の中にある。それゆえこの出来心を鎮めるための教えじゃ。日々新たに、戦々恐々、戒め慎め、怖い怖い。弘法大師の歌に、」

「法性の無漏路と聞けど我すめば有為の浪風立たぬ日もなし(万物の本質は迷いのない世界であると聞くけれども、私の心には日々迷いが生じる)」

「随縁真如(不変である真如が縁に随って様々な現れ方をすること)の浪の立たない日もないと。その時々の因縁に触れて、ついヒョイヒョイと、出来心を慎まなければならない。大切なことじゃ。先日京都で冬のことであったが、夫の留守に友達が遊びに来た。女房は何ともなしに、炬燵で仕事をしている。また友達も夫が留守なら、早く帰ればよい。寒いことじゃと、言いつつ上がる。女房も自堕落、夫が留守だと言えばいいのに、炬燵の火がいい感じだからちょっとあたっていきなさいと言う。友達も自堕落者、つい炬燵にあたったものじゃ。これがこれ、両方に立ち帰る心がないの。自堕落ばっかりで、ここまでは出来心もないが、この炬燵にあたって、一つ二つ話をする間、つい手が触り足が触り、ちょっと太ももへ足の先が触るや否や、そのままじわりじわりと出来心。怖いものじゃ。火口(点火に使う燃料)屋の火遊び、常に用心しなければならない。恐ろしいことじゃ。そこに夫が戻ってきた。さてそれからが出刃包丁ざんまい、切ったり突いたり、町中大騒ぎ。大きなことが出来心じゃ。初め友達が家を出るときには、何という気もない。今日は八兵衛のところへ行って間男して、仕舞いには出刃包丁で突き合いをしようと、考えて来たわけでもない。玄関に入るまでも、まだ炬燵にあたるまでもその心はなかったけれど、つい出来心。大事のものじゃ。よって常を慎まねばならない。みな安楽なところからポンポンが起こる。あれが欲しい、これが欲しいも、道がないためじゃ。道は結局不自由なところにあるものじゃ。とても貧しい人が、日々の生活に追い回されて、仕方なしに道を行っている人があるものじゃ。年老いた親に女房子供で家族五人、これを男の足一本でその日暮らし。大根大根と言って、日がな一日売り歩き、日暮れに戻って草鞋も脱がず、これかかあ見てみろ、まず今日も二百文、さてさてありがたいとおし頂き、ソレ米を買え、これは薪代、ソレ油ソレ味噌代と、それぞれに分けて渡し、どうか明日もいい天気ならいいがと、夜食も食べて寝たところは極楽。一日の疲れで夢も見ず、ぐうぐうと寝たところは、大金持ちもむしろの上も同じこと、何にも変わったことはない。さて目が開くと草鞋を締め履き、今日もいい天気でありがたいと、また荷物を担いで大根大根。どんな豪邸を見ても、さても結構な家だと見るばっかり、このような家に暮らしたいとも思わず、大根大根、根っから心を取られる心配はない。また友達が向こうから来る。権兵衛どこへ行く、と聞けば友達が、今日は休んで坊主を連れて開帳参りだ。そりゃいいお参りだ、参っておいで。早く済ませてしまいなよ。うまいものじゃ。さて権兵衛は張り切って、坊主にもさっぱりと着せて、おおでかしたでかしたと思うばかり、それほどうらやましいとも思わず、大根大根の他には何にも願いや望みはない。根っから心は取られない。またどのような色っぽい人でも、向こうから美しい灯籠鬢が来る、さても美しいと見るばっかり、あれはどこの娘じゃと首をねじっても見ない。大根大根と日々の暮らしに追い回されて、一つも取られることはない。不思議なものじゃ。それがもう米びつに米がいっぱいあるようになると、もうあれが欲しい、これが欲しい、あそこがよいとか、この着物では行けないなどと、ポンポンしかける。これだから常が大事じゃ。心得なければならない。この常のありがたさを、よくよく考えて理解された方がよい。例えば腫れ物ができたり、流行病に苦しむときは、どのように言うか。どうにか痛みが少し和らいだら何を思うか。ソレ常を願うじゃないか。どうかもう一度回復させてくださいませ。この苦しみから助かったら何を思うか。みな常を願う。それがちょっと回復して、ああ嬉しいと言うが最後、もうポンポンする。以前に、米が二百五十匁したときのことを思い出してごらんなさい。諸々方々の大騒動、やかましいことであった。米屋は米を売らず、酒屋は酒を売らず、あらゆる商売がしばらく取引総休み。そのときは日本中の人々が何を願ったか。どうかもう一度安い米を食べて死にたいと、木の芽や草の根まで尋ね回って、みな泣きの涙、可愛い一人娘を売って食費にするやら、諸道具を売り払うやら、明けても暮れても米のことばかり。常は話しかけもしない小便取りまでに、米の作柄はどうでございますかと丁寧に、孫がいる田舎の人が来たように、毎日毎日熱心に聞いていた。米の相場を一向に知らない者までが、五穀成就五穀成就の願いより他はなかった。これをもって常のありがたいことをよく理解されることだ。あのとき世界中の人が米のありがたいことを知り、神のご加護を思うようになって、天地のご機嫌が直り、秋の収穫もよくなり、米が安くなると、さてさてありがたいと言ったばかりで、もうあれが欲しい、これが欲しい。米びつに米がいっぱいになると、この米は何か臭うだとか、おかずがないと飯が食べられないなどと、ポンポンポンポンしかける。何と早く忘れてしまうことか。炊き出しの粥をもらい歩いたことは忘れて、緋色のちりめんで髪結い二人、板しめの袖口を牛の舌のようにひらひら出して、ポンポンするのはあんまりじゃ。これが女の方々のことばかりじゃない。世界中の人が天地の融通のご加護のおかげで、今日まで命を繋いできたことをいつまでも忘れてはなりませんぞ。物覚えが悪くて気の毒じゃ。極楽好きの極楽嫌い、地獄嫌いの地獄好きというものじゃ。何を飲ませたらよいのだろうか。ついでにご披露いたします。先日聞きました、結構な妙薬でございます。毒虫に刺されたときにイカの墨をつけると奇妙に治ります。これはいくらでも試してみた方々がいる。イカを料理するとき、墨の袋を破れないように出してもらい、糸でくくって陰干しにしておく。冬の頃で乾いたならば、唾で潤いをつければよい。また病犬に噛まれたときにもよいということでございます。もう一つ妙薬、火傷の薬、これはキュウリをおろしてつければ、すぐ治ります。これをしばらくの間保管しておくには、キュウリを小口切りにして、茶碗の類に入れて蓋をして空気が抜けないようにしておけば水になる。その水をつければたちまち治ります。どなたもよく覚えておいてご披露なさってくださいませ。さてこの火傷について火宅の話、ついでにお話しいたしましょう。」

(以下私見)
思い起こせば私も若い頃は、いろいろとポンポンしていたなあ。。いや、今でも気をつけないと、またいつポンポンするかわかったものではない。。道二さんの言う通り、これでいいということはない。。日々新たに、恐れ慎んで生きていくということが大切ですな。。

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