石田梅岩「都鄙問答」現代語訳(十八)
(日本古典文学大系「近世思想家文集」の原文を現代語訳しています)
「ある人、主人の日頃の行いを問う(二)」
(ある人)
「親方は、親類一家の祝儀の贈り物は、やるのももらうのも三分の一に減らし、七日の法事は三日に減らし、一日の物忌み(身を慎み、けがれを取り除くこと)は三日に増やし、斎や非時(僧を招き食事をすること)も五十人の僧を二十人に減らし、一石の施行(僧へ施す米)は三石に増やす。これらのことはどうか。」
(梅岩)
「自分の身の程をよくわきまえて天を恐れる志、ありがたいことである。贈り物を減らし、法事の数を減らし、僧を集めることを減らすのは、自分の身の程を知っているからだ。法事に物忌みし、慎むのは礼である。施行米を増やし、人を救うのは仁の施しである。すべて増減を知るのは智である。誠に智仁の心をよく用いている様子で、人の道にかなっている。孔子も、「礼は奢るよりも倹約せよ。葬儀は形式よりも悼む心が大切だ」と言っている。さて、五十人の僧を二十人に減らしたことについて、お前は疑問を持っているのではないか。」
(ある人)
「法事は少しでも多くすることを善事と言うべきだ。減らすのを善と言うのはどういうことか。」
(梅岩)
「私ごときが説明できるものでもないが、お前がわかりやすいように、例えをもって話をしよう。お前も生まれたときは赤子だった。それに名を付けて次郎とか太郎とか言うようになって、成長して今の名が付いた。また歳をとれば法体(僧から戒を受け、頭を丸める)して法名を付けるだろう。その時々の名前を呼べばお前は答える。その名は実の名か、仮の名か。」
(ある人)
「名は付けて生まれるものではない。まず仮のものである。」
(梅岩)
「お前を盗人と呼んだらどう思うか。」
(ある人)
「盗人と呼ばれては世間で生きていけない。だから怒るだろう。」
(梅岩)
「善人と呼ばれたらどう思うか。」
(ある人)
「善事は特にしていないけれども、褒められるのは悪い気はしない。」
(梅岩)
「盗人と呼び、善人と呼び、これらは仮の名で外から付けた名である。それなのにどうして怒ったり喜んだりするのか。」
(ある人)
「仮のものとは思っているが、名も私に付いているものであるから、これも実物のようなものだ。盗人と呼ばれれば、何を考えることもなく怒るだろう。」
(梅岩)
「今お前の爪を切って捨てるときに、爪の中に爪という名はあるか。また、お前の体を切り裂いて見れば、どこかにお前の名があるか。」
(ある人)
「爪を切っても、身を切っても名はないだろう。」
(梅岩)
「爪を切っても、身を切っても名はない。形(身体)は土である。名はすなわちお前である。神という名はそのまま神である。名の他に神仏はない。よって先祖や親祖(父、祖父)も、法名を付けて呼べばそのままご先祖様である。さて、また、お前は祭りやお節に呼ばれて行くときに、先方の夫婦は機嫌が良い方がいいか、機嫌が悪くても料理が良い方がいいか。」
(ある人)
「料理は粗相であっても、亭主の機嫌が良い方がいいだろう。」
(梅岩)
「先代の親方は大がかりな法事をしていたと聞いたが、本当か。」
(ある人)
「信仰の厚い方だったので、仏の事は大がかりにされていた。」
(梅岩)
「法事のときは、いつも機嫌良く喜んで勤められていたか。」
(ある人)
「大勢の客を粗末に扱わないように心を遣い、下々の者の手際が悪ければ、台所の者などは叱りつけられていた。」
(梅岩)
「日雇いの者などにも、法事の心付け(お礼の金)を渡していたか。」
(ある人)
「大勢の僧なので、お布施は渡していたけれども、その他の日雇いの者には心付けは渡していなかった。今の親方はそれとは違って、お布施は先代のときよりも多めに渡し、世間とは異なり、出入りの日雇いの者にも賃金のほかに心付けも渡している。無益の出費である。」
(梅岩)
「そうであれば先代の親方は、叱り回したり腹を立てることを法事としていたのか。」
(ある人)
「そうではない。僧だけで五、六十人も招かれていたので、台所は人が足りず、気が焦って、自然と怒ることになってしまうだけのことだ。けれども法事自体は結構なものであった。」
(梅岩)
「法事のときは、仏前のお供え物は自ら備えられていたか。」
(ある人)
「他の仕事が多く、そこまでは手が回っていなかった。」
(梅岩)
「座敷の膳や引き菓子の準備などは、自らされていたか。」
(ある人)
「それは丁寧な人だったので、身分の高い客の分は必ず自分でされていた。」
(梅岩)
「お前は先ほど、主人が機嫌の悪いところに呼ばれて行くのは嫌だと言っていなかったか。自分の身になって万事を考えてみなさい。法事の上客はご先祖様である。それなのにご先祖様のところへは顔出しもせず、配膳も他人に任せ、相伴人(僧)を接待するなどという礼法はないだろう。そのような礼を欠いたところに、料理がうまいからといって、先祖が来るだろうか。もし来たとしても快い気分でいられるだろうか。快くないことをして、孝行の法事と言えるだろうか。」
(ある人)
「ご先祖様はもはや仏なのであれば、そこまで配慮しなくても良いのではないか。」
(梅岩)
「お前は先ほど、名も実物のようなものだと言った。仏前に法名があれば、これがそのままご先祖様である。神仏も名を祭り、ご先祖様も名を祭る。名はそのまま(本)体である。体はすなわち心である。ここをもって孔子も、「神がそこにいるように神を祭る。そうしなければ神を祭ることにならない」と言っている。よってお供え物なども自ら備えるべきで、人にさせるようでは祭らないのと同じである。祭るというのは、現在の我が国では法事のことである。孔子は先祖の祭りには沐浴をして、心をととのえて身を清めた。先祖を祭るときは、自分に誠があれば先祖の霊が来てお供え物を受け取る。誠がなければ霊は来ない。来なければ祭るといっても何の意味もない。よって法事を行うときは、ただ孝行を主とすべきである。それなのにお前の先代の親方は、多くの僧を呼び集め、客あしらいに時間を取られ、そのうえ台所に人が少なければ手が回らず、仏前の勤めは他人に任せ、万事がそのようであっては、「先祖がそこにいるように」接待することになるだろうか。身分相応に、奢り(贅沢)をせずと言うのは、僧が多いことを悪いと言っているわけではない。総じて今の世の法事を見ていると、世間に見栄を張るのみで、台所は働く者を倹約し、人が少ないのに客は多いので手が回らず、主人は腹を立て怒るようなことが多い。その怒った顔つきをしてご先祖様に向かって、一体何の法事になると言うのか。まことの法事というのは、自分の心を落ち着けて、安楽な顔つきをご先祖様に見てもらい、僧へも衣のお直し代も十分あるようにお布施に心を付け、出入りの日雇い者にも、賃金のほかに心付けを渡し、みんなが快く喜ぶようにすることこそ、まことの法事と呼ぶべきだろう。かかる費用はあらかじめ予算を決めておきながら、世間に見栄を張るために僧を多く集めるので、お布施は減ってしまい、その他なすべきことに不足が出てきてしまうのだ。法事をすると言って人を怒らせ、自分も腹を立て、下々は手足がすりこぎになるほど使われて、苦しめられるということは悲しいことだ。天下に大法事などが行われるときには、諸国で殺生が禁じられ、罪人も恩赦されるというものだ。このようなまことの法事を手本とし、身の程をわきまえて、慎ましやかにして費用は減らさず、寄り集まる者がことごとく快く喜ぶようにすれば、ご先祖様を弔うまことの法事となるだろう。」