情況についての発言(1)――差別、差別表現についての雑感

 部屋のなかに溜め込んでいたものの一つに絓秀実氏の書いた『「超」言葉狩り論争』という本があったが、先日、偶然のことから終わりまで読んでみた。それは、1995年に刊行され、その前年からの各種媒体に発表された文章をまとめたものであるが、これを読んでみて、そこに書かれている内容が、およそ三十年も前のものであるはずなのに、現在起こっていることと似通っていることに気づいて、驚きを隠せなかった。それどころか、寒気がしたぐらいである。三十年も経てば、ある程度は進歩するものだろうと思われるが、現実の上でも、観念の上でも、あまり変わっていない様子を見るのは残念でならない。私は決して絓氏の肩を持つ者ではないが、絓氏のこの著書を読めば、私と同様に驚く者がいるに違いない。この情況が何を示しているか、日本特有の観念上の古い層が現われているのか、または、近代的世界の理念の現実への移植の限界が現われているのかはわからないが、とにもかくにも、この情況が克服されるべき情況であるに違いない。だが、ここではどのような方法、構造転換を取るべきかは問わない。むしろ、新たな方法、構造転換を取ることこそが、新たな問題の種ともなりうるかも知れない。
 絓氏の『「超」言葉狩り論争』では、どのような事柄が扱われているのか、主題に抽象して具体的に示すならば以下のようになると思われる。

 ①小説家筒井康隆氏の過去の作品が高校国語教科書収録にあたって差別的表現を指摘されたこと
 ②同筒井氏の小説『文学部唯野教授』における悪質な差別的表現
 ③戦中、戦後の部落解放同盟における運動のスタンス
 ④ホロコースト否定の記事を掲載した文藝春秋発行の雑誌『マルコポーロ』廃刊事件
 ⑤文芸評論家渡部直己氏『すばる』文芸時評中止事件

 他にも様々な事柄があるが、もうこの辺にしておこう。以上に挙げた事柄において共通点があるとすれば、渡部氏の件(ただし、渡部氏には、数年前にセクハラ疑惑が持ち上がったが)を除いては、マイノリティーへの差別または差別的表現についてである。以上のような出来事が、1993年から95年にかけて起こり、これらが当時、議論の的となっていたことが伺われる。そして③を除けば、これらを見て、現在起こっていることを想起せずにはいられない。
 ⑤についてもう少しわかりやすく言うと、渡部氏が文芸誌『すばる』において始めた文芸時評で一部の小説家を批判的に言及したことを契機に、同誌の版元である集英社の上層部の意向によって、渡部氏の時評がわずか一回で中止となった事件のことである。これは1995年の出来事であるが、最近でも、某出版社の文芸誌において、ある文芸評論家が、月評の一部表現をめぐって、月評から降板したという噂が流れている。どのような内容かにもよるが、基本的に評論家は、評論の対象において批判すべき部分については批判的な内容を書かなければならない。もちろん、褒めるべき部分があれば、肯定的な評価を与えなければならない。だが、的外れな批判が書かれているのであれば話は別であるが。書き手と編集側との間で一度決定したものを、上層部の都合で覆されるのは決して気分の良い話ではない。金銭上であれ、観念上であれ、また批評の対象となった作家の意向(例えば、作家本人が批判を嫌がる等々)も絡んでいるのかも知れないが、上層部にとって都合の良い作家を批判するのはけしからんという話であるならば、文学とは何か、いかにあるべきかと問われる事態になるであろう。書き手と出版社との関係の話はここまでとする。
 絓氏の著書では触れていなかったが、次に女性の社会的地位について少し言及しておきたい。男女雇用機会均等法が成立して三十年以上も経過し、その間に数度の改正もあったものの、ジェンダー・ギャップ指数では、先進国のなかで最低レベルに位置している。確かに、労使関係のうちの労の面でのみ見れば、労働者としては、徐々に格差は縮まってきているように見える。まだいくつか課題があるにしてもである。とはいえ、もう一方の使の面では、そうとは言い切れない。私の立場上、労使関係のうち使の面について肯定的に語ることはなるべく控えたいのではあるが、管理職となると男女比率がかなり極端なことになる。政治の分野にしてもそうであって、女性の比率が圧倒的に低い。世界各国の比率を見較べてみると、この分野に限れば、近代的世界の理念の限界と言うよりは、日本特有の観念上の古い層のほうが不可避的に現われていると言いたいぐらいである。
 そのようななかで、JOCの臨時評議員会で問題発言の多い森喜朗氏の「女性は話が長い」発言である。先日の元大物野球選手の張本勲氏にしてもそうだが、女性の活躍を大変喜ばしいと言うのであれば、なぜあんな回りくどい言い方をしなければならないのか。素直に喜べばいいじゃないか。根拠不明な「女性は話が長い」発言の主の森氏の話のほうが、IOCのバッハ会長の挨拶と同様に長いとさえ聞く。失言が多いというのもこれが理由としか言いようがない。
 女性の社会的地位についてあれやこれやと議論されているなか、オリンピック憲章に抵触しかねない発言をした森氏には各方面から辛辣な批判がなされ、その結果、会長辞任に追い込まれた。それを契機に、各分野の会合や委員会等々で一定の地位ある女性が相次いで抜擢されるようになったが、女性の間でも冷やかな意見があると聞く。私個人の見解を披瀝させていただくならば、抜擢する上では、実力があれば男女関係ないということである。だが、実力というよりは、世論の批判を回避するために一時的に利用されているのではないかという疑念が拭えない。それが女性の間でも広がっているかも知れない。それならば、ある時期が過ぎ去れば、また元のように戻ってしまうことも考えられる。そうならないためにも、根本的な解決策が議論されることが必要となるが、議論の土壌が整備されているかどうかもわからない。長い道のりになりそうである。
 次に過去の障碍者等へのいじめが問題となって東京オリンピック開会式の作曲担当者を辞任することとなった小山田圭吾(コーネリアス)氏について言及するが、いじめ自体は1980年前後に行われたものと推定され、1994年から95年にかけて複数の媒体にその内容が告白されている。小山田氏は、サブカルチャーの領域では知られた存在であり、私もその名を知っていたが、不覚にもいじめ告白の記事は知らなかった。サブカルチャーに関心ある小山田氏と同年代の方々の間ではかなり有名な話であったとも聞く。それまでの小山田氏への私の印象について蛇足ではあるが述べておきたい。小山田氏の元相方であった小沢健二氏について言えば、大資本を投下して製作されたと思われる菅田将暉・有村架純主演のお花畑のような映画の宣伝映像の垂れ流しによって聴かされ続けることになった何と読むかわからない楽曲を歌うシティ・ポップスのような名前のバンドの青髪の女性ヴォーカルとのことは、文春砲とはいえ、一部週刊誌によるもので、真偽の程は定かではない。とはいえ、世代論的な物言いはあまり好まないが、私のような年代には、「王子」だとか、「プリンス」だとか称されているのが多いこともあってか、小沢氏にはあまり好感を持っていない。かといって、小山田氏には好感を持っていたかと聞かれると、そうとも言えない。インテリぶった物書きが小山田氏を過大に評価しようが、たまにNHKの音楽番組に出演して一曲披露しようが、小山田氏特有の佇まいと言うべきか、それがどうも鼻に付いて、むしろ小沢氏以上に好感が持てないと言うべきかも知れない。
 そんな小山田氏のいじめ告白の内容であるが、テレビの情報番組では内容の酷さから一部が伏せられていたが、別の媒体で見る限り、いかにも当時の売れっ子のドラマ作家が書きそうな現実離れした内容である。よく見ていると、実際に小山田氏がやっていないものも含まれており、今回の騒動では、実際にやっていないものまであたかも小山田氏がすべてやったかのように扱われ批判が集中した格好である。とはいえ、いじめ自体については小山田氏は認め謝罪しており、四十年も前の出来事とはいえ、自身より立場の弱い障碍者相手のいじめであり、直接の被害者もいる以上、障碍の程度の差こそあれ、基本的に許される事柄ではない。もちろん、健常者に対してもである。
 東京オリンピックの開会式を翌日に控えた7月22日に、演出担当の小林賢太郎氏が、急遽その役職を解任された。理由は、若手芸人時代に行なったコントで、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という言葉が用いられていたことである。このコントの動画が、解任の前日にインターネット上に公開され、騒動となり、ユダヤ人権擁護団体サイモン・ウィーゼンタール・センターが声明を発表するに至った。人類史上最大にも等しい犯罪を笑いの対象にすること自体信じられないが、食うや食わずの若手時代の苦悩の結果で、今回このような形で批判されるのは何とも言えない。これもオリンピックという非常に注目を浴びるイベントかつオリンピック憲章に抵触するゆえに起こったことであるが、私は、過去のコントについて言えば、小林氏を擁護する気はない。私はお笑いには元々疎いこともあるのだが、まだ何者でもなく窮地にあるなかであっても、センセーショナルな事柄を披露すること自体浅はかなことと考えているからである。もちろん、小林氏は過去のコントについて反省しており、その後の活躍をご存知の方も多いであろう。そのようななかで、反省した過去のこのコントによってすべてが無になるということが何とも言えないだけである。
 私は、オリンピック憲章に抵触することもあり、小林氏の解任を止むなしと考えるが、今回の騒動で、小林氏が解任で、なぜ小山田氏が辞任なのかという声を聞く。もちろん私も同じ考えである。ただ同じと言っても、両者ともに同じ結果であるべきだということである。辞任であろうが、解任であろうが、両者が同じ処分であるべきだということである。だが、小林氏の場合、開会式を翌日に控えていたことで早急に処分しなければならなかったと思われる。また、最も敵に回したくない相手を敵に回すことを避けようとしたとも思われる。日本では、冒頭にも述べた『マルコポーロ』事件という前例があり、内容を見る限り非常に露骨なものであり、オリンピックの開催自体危ぶまれたものと察せられる。私は、コロナ禍があり、その他諸々の理由もあって、オリンピック開催に否定的であったが、そのような前例があればそうなりうると言いたいだけである。オリンピックは何事もなく開催されたが、解任された小林氏の今後が非常に心配である。それは、小林氏の元相方である片桐仁氏にしても同様であるが、反省したとはいえ、過去のコントゆえに最も敵に回したくない相手を敵に回してしまったままでいる。両氏ともに、何事もなく今後も活動されることを祈るばかりである。
 オリンピックという非常に注目されるイベントによって、小山田氏と小林氏のようなサブカルチャーの文脈で語られる人物の過去の行動が批判的にクローズアップされることになってしまった。小山田氏については、先にも述べたように好感を持てないが、これらのことはサブカルチャーにとって大きな痛手であることは言うまでもない。一時の迷走があったとしても、メインストリームに対する対抗文化という意味合いを担っており、私としては陰ながら応援していたが、非常に残念なことである。サブカルチャーの領域に対する信頼の回復は容易なことではないが、私としては暖かく見守っていきたい。
 最後に絓氏も言及している筒井康隆氏について触れておきたい。筒井氏は、1993年に、そのおよそ三十年前に発表された短編小説「無人警察」が角川書店発行の『高校国語Ⅰ』に収録されるにあたって日本てんかん協会から差別表現を指摘されたことで、多くの文学者から批判を受けた。それを契機に「断筆宣言」をしたものの、絓氏の著書を読む限り、筒井氏が反省をしている様子はほとんど見られない。むしろ、居直ってさえいる。上記の小山田氏や小林氏の対応とはまるで正反対であると言うべきである。
 私は今から五、六年ぐらい前に筒井氏の作品を古書店で見つけて、買って読んだ覚えがある。確か『虚航船団』(1984年)と『文学部唯野教授』(雑誌連載1987-1989年、単行本1990年)だったと思う。純文学書き下ろし作品と銘打った『虚航船団』のほうをまず読んでみたが、ところどころ下品な描写が見られ、自戒を込めて最後まで読んでみたものの、あまりにも下らなく現在では押し入れの奥に眠っているはずである。そして次に、『文学部唯野教授』のほうを読んでみたが、一人の一介の小説家が、数多の文芸理論家や哲学者の理論をこれほどまでに咀嚼できるものかと不思議に思ったものだ。そしてやけに目についたのが、筒井氏のLGBTQやエイズに対する理解である。私から見れば非常に抵抗のあるような理解であったが、この小説が発表された当時の理解の水準はこんなものかと思ったものだ。しかし、絓氏の著書を読むとそうでもないらしい。絓氏によれば、『文学部唯野教授』のLGBTQやエイズ記述は、当時の一般的理解からしてもお話にならないようである。また、日本てんかん協会から指摘された「無人警察」のてんかん差別表現よりも悪質であるとも言っている。年を経るごとに筒井氏の小説の差別表現が輪をかけて悪質になっていると言うべきか。
 なお、この『文学部唯野教授』は、発表当時大学生の間で大流行したとも聞いている。当時の文壇がポスト・モダン思想の影響下にあり、論理的な文芸批評や論理めいた小説が氾濫していたという事情も関係していたと思われるが、筒井氏の当時の文芸理論家や哲学者への理解の程度はさておき、当時の大学生はその内容に抵抗を感じなかったのだろうか。付け加えておくと、その当時の大学生は、今や五十歳前後である。私の知る範囲では、現在の五十歳前後の方々と接しているとどうしても感覚的な隔たりを覚えてしまう方々が多い。他の年代の方々に対してはそういう隔たりを覚えることはあまりないのだが。先に世代論的な物言いはあまり好まないと記したが、現在の五十歳前後の方々と接しているとどうしても以上のように感じてしまう。他の年代の方々はその点どのように感じるのだろうか知りたいものだ。
 岩波書店という人文主義や公共性を表看板に掲げた出版社があるが、岩波文庫という形で他ではほとんど入手困難な古典作品や研究書等々を廉価で出版しており、私のような何の基盤も持たない物書きにとっては、非常にありがたいことである。しかし、そのような表看板を掲げる岩波書店が、筒井氏のLGBTQへの悪質な差別表現をふんだんに盛り込んだ『文学部唯野教授』をまず自前の雑誌に連載させ、次に単行本を刊行し、そして文庫版として現在もなお出版し続けている。いまだに需要があるからなのかも知れないが、そのことを誰も何も思わないのだろうか。先日の東京オリンピックの開会式では、すぎやまこういち氏の楽曲が流れたと聞いたが、すぎやま氏と言えば、反LGBTQの言説へ同調したことで騒がれている。筒井氏は一度「断筆宣言」をしたが、メインストリームの重鎮の二人が許されている様子を見ていると、近代的世界の理念の限界どころか近代社会すらが成熟していないとさえ思えてしまう。

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