エセーの試み(2)――弘前への旅

 前回の「エセーの試み」で哲学堂公園の桜を見る会に参加するために5年ぶりに中野駅に降り立つことになると書いたが、急遽行けなくなった。当初、哲学堂公園の桜を見る会は4月の初旬に予定されていたのだが、諸事情により翌週に延期された。これが問題だった。実を言うと、哲学堂公園の桜を見る会の開催の翌週に2泊3日の弘前行きが決まっていた。哲学堂公園の桜を見る会が翌週に延期されたことで日程が重なってしまい、弘前行きを優先せざるを得なかった次第である。
 弘前は私の父親の故郷である。親戚の墓参りが今回の弘前行きの主な目的であった。本当は4年前に行く予定であったが、皆さんご存知の通り新型コロナウイルスによるロックダウンがあって、直前で取り止めになった。私としては実に29年ぶりの弘前行きであった。当時、私は3歳だった。この時は車で行ったのだが、途中で道を間違えて千葉県の舞浜にあるいわゆる「夢の国」に行き着いてしまったらしい。
 私の父親はいわゆる「集団就職」で弘前から出てきた。衆議院議員の菅義偉氏が自由民主党の総裁選に出馬した際にはかなりぶち切れていた。父親曰く、「こっちは父親が早くに死んで、母親がすぐに再婚して、母方の爺さん婆さんの家に預けられて育って中学校を卒業してからこっちに来た、あいつは違う、あいつは家業を継ぐのが嫌で地方の大学進学を拒否してこっちに来ただけだ、何が集団就職だ」、と。このような事情なので、父親は太宰治のこともあまり快く思っていない。寺山修司のことはそれほどでもないが。
 今回の弘前行きには東北新幹線を利用した。駅のプラットホームに喫煙所はあったが、車両は全面禁煙だった。終点の新青森駅までの約3時間、煙草が吸えず地獄だった。新青森駅に到着し、奥羽本線に乗り換えて弘前駅に向かった。弘前駅では親戚が出迎えてくれた。
 29年ぶりの弘前はどうかというと、もはや「風景の死滅」(松田政男)どころではなかった。親戚の自宅までの車中、ここ近年は畑が減ってコンビニがかなり増えたと聞かされた上に、親戚のアラ還三姉妹は私以上にスマートフォンを使いこなしていた。私のほうが単に不器用なだけなのかも知れないが。その日の夜は県内の各地に居住する親戚が一斉に集まっての晩餐となった。郷土料理も出た。標準語を話せる方は多かったが、今の70代以上には標準語を覚える気すらない方々が多いらしい。弘前に限らず、地方ならどこでも同じなのかも知れない。父親は普段、津軽弁をまったく話さない。ゆえに、私は津軽弁がまったくわからない。70代以上の親戚との会話にはかなり苦労した。海外にいるような気分で、私は自分がいかに関東の人間であるかを思い知らされた。青森県産の日本酒を飲んでいたら、何回も私のコップに同じ日本酒が注がれた。父親はこの場でも菅氏にぶち切れていた。みんな納得して、一斉に盛り上がった。
 こう言っては間違いかも知れないが、変わらないなと思えるところもあった。親戚の自宅の近所にある墓地に行った際に、「あっ、ここの家は神道だから葬式の形式が違う」と説明を受けた。親戚の自宅には私の生誕祝いに送られたという32年モノの花瓶が仏壇の前に置かれ、その仏壇の横には神棚があった。これに私は戸惑ったが、地方での抵抗運動を展開する上で見逃してはならないように思われる。親戚の一人は、勤務先の会社での労働組合のストライキに参加した時のことも少し話してくれた。また、私が板柳に行きたい旨を伝えたが、「そんなところへ行きたいのか」と一蹴された。代わりに、五所川原行きを勧められた。実際にはどちらにも行かなかったが。
 私が幼稚園児の頃まで父親は鵠沼海岸の商店街にある豆腐屋で働いていた。かなり古い家屋だった記憶がある。幼稚園の他の園児とはあまり遊ぶ習慣のなかった私はよくその豆腐屋に連れて行かれた。話を再び弘前での晩餐に戻すが、そこで親戚の一人が、「小山明子さんがよく豆腐屋で豆腐を買いに来ていた」と話していた。俳優の小山明子氏が豆腐を買いに来ていたかどうかはわからない。5年ほど前に自宅の椅子とテーブルを藤沢市に寄贈したことはメディアで取り上げられていたが。ただ、弘前の親戚がなぜ当時の私の父親の職場についてここまで知っているのか気になった。後で聞いてみると、父親の叔母がその豆腐屋に嫁いだとのこと。私も豆腐屋の女将さんにだいぶお世話になったが、親戚だったことを初めて聞いて驚いた。
 私の父親はいわゆる「集団就職」で弘前から出てきたと先に書いた。上京してまず最初に勤めたのが電気製品を製造する某大資本企業の下請け会社だったようだ。労災で負傷した同僚を「名前も知らない木」のように扱う上司に嫌気が差して辞めたらしい。私は、「労働組合はなかったのか」と尋ねたが、「小さい会社だったのでそんなもんはなかった」とのこと。その会社を辞めてすぐに豆腐屋の叔母のところに連絡を入れたらしい。父親は仕事の傍ら通信制の高校を卒業し、某大学の法学部通信教育課程へ入学した。先日、某大物アイドルが卒業したことで話題になった同課程である。入学から約半年後の夏頃に東京のキャンパスへ行かなければならなくなり、父親は、「この豆腐屋の忙しい時期に東京のキャンパスなど行けるか」と、ぶち切れて中退した。東京大学の安田講堂陥落から半年後ぐらいの頃だと思う。
 弘前滞在最終日に弘前城を見に行くことになった。弘前城は現在、石垣の改修工事中のため天守が別のところに移されている。移された天守を背景に写真を撮って貰った。帰りの車中、岩木山が見えた。親戚の一人は、「弘前から眺める岩木山が一番いい」と言った。確かにいい眺めだった。松田政男は、今から半世紀以上前に板柳から眺めた岩木山について、「ハイウエイが切り拓かれ、山上八合目には駐車場やレストランが賑々しく、九合目まではロープウエイで昇降でき、わずかに自然のままに留め置かれているのは山顚の周辺のみというところにまで変容し」、「観光資源として形骸化されつつある」(松田政男『風景の死滅』)と言っているが、先にも言及したように、私は今回の旅で板柳に行ってないので板柳から見える岩木山がどのようなものであるかはよくわからない。その後、お土産をいくつか購入して弘前を後にし、弘前への旅を終えた。
 後日、哲学堂公園の桜を見る会へ行けなかったことのお詫びを兼ねて弘前でのお土産を持参して、研究室を訪問したい旨のメールを大学院生の時の指導教員に送ったが、返信はなかった。

いいなと思ったら応援しよう!