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アメリカにひれ伏す「保守雑誌」─【特別座談会】山崎行太郎×金子宗德×『維新と興亜』編集部「『Hanada』『WiLL』『正論』 ネトウヨ保守雑誌の読者に問う!【上】(『維新と興亜』第9号、令和3年10月)

 『Hanada』、『WiLL』、『正論』などの「保守雑誌」は、中国や韓国、左派や野党に対しては、非常に鋭いパンチを繰り出している。読者はそれを喝采し、溜飲を下げているのかもしれない。しかし、これらの保守雑誌には重大な欠陥が潜んでいるのだ。彼らは、ひたすら自民党や政権を礼賛し、国家の主権や独立よりもアメリカへの追従、迎合を重視し、売国的な経済政策を主導し、日本社会を破壊してきた竹中平蔵氏らの新自由主義者を恥じらいもなく重用しているからだ。こうした言論が「保守論壇」の主流を占めている限り、わが国は本来の姿を取り戻せない。
 では、保守雑誌のあるべき姿とは何か。『保守論壇亡国論』などで保守思想家を撫で斬ってきた山崎行太郎さんと、「国体」を基軸とする独自の編集方針を貫く『国体文化』(日本国体学会機関誌)の編集長を務める金子宗德さんと本誌編集部メンバーが保守雑誌の問題点について徹底的に議論した。

「結論」を横取りし自説のごとく振り回す「パクリ野郎」


── 『WiLL』などの保守雑誌は野党を激しく叩いていますが、政権には阿るばかりです。まるで自民党の御用雑誌のような様相を呈しています。
金子 これらの雑誌は、九月に行われた自民党総裁選では「高市待望論」を展開し、その前は菅政権擁護、そしてその前は安倍政権擁護の主張を載せてきました。
 特に第二次安倍政権以降は、政権を礼賛するためのプロパガンダ雑誌のようになっています。安倍氏が政権を退いた直後に刊行された昨年十一月号では、『Hanada』が「総力大特集 永久保存版 ありがとう安倍晋三総理」、『WiLL』が「総力特集 身命を賭した安倍政権の光輝」、『正論』が「未完の安倍政治」という特集を組むなど、安倍氏への忠誠心を競い合っているようでした。
 政権を礼賛し、現状を肯定することが「保守」であり、政権を批判する者は「反日」だという誤った考え方が広がっているように思います。編集者も執筆者も、何を保守するのか分かっていないのです。
 そもそも、日本には「保守」という言葉が十分に定着していないのかもしれません。「保守」の用例の早いものとしては、明治十二(一八七九)年に福澤諭吉が著した『民情一新』が挙げられます。福澤は「在来の物を保ち旧き事を守り以て当世の無事平穏を謀る、之を保守の主義と云ふ」と書いています。ここでの「保守」は、事なかれ主義に近いニュアンスで用いられているに過ぎません。その二年後の明治十四年には、金子堅太郎が『政治論略』で「保守主義」の政治思想を説いています。自由民権運動が活発な時期であり、明治政府の打倒にも繋がりかねない急進的な思想に歯止めをかける思想として、金子は「保守主義」を提唱します。注目すべきは、金子の「保守主義」がエドマンド・バークの思想に基づいたものだったということです。
山崎 金子さんの説明の通りだと思います。ただし、私は、そもそも「保守」という言葉が好きではありません。「保守」は「ことなかれ主義」の匂いがしますね。だから私は、学生時代、全共闘世代で、左翼全盛の頃ですが、皮肉を込めて「保守反動」を自称していました。私の考える保守は、小林秀雄や江藤淳等に学んだものですが、「革命的保守」というか「保守過激派」とでも呼ぶべき保守です。したがってフランス革命に怯えたバークにもまったく興味ありません。ところで、政治思想として、メディアなどで「保守」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、比較的最近だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫たちは、敢えて「保守」という言葉は使いませんでした。むしろ彼らが亡くなった後に、「保守」という言葉が氾濫するようになりました。本来、「保守」は理論化、イデオロギー化できないもののはずです。それを理論化したのが、西部邁だと思います。小林秀雄、江藤淳、三島由紀夫、福田恒存らの「保守思想」は、生活感覚のような保守であり、「直接経験」や西田幾多朗の「純粋経験」を重視するものでした。「保守」は理論化とは馴染みのないものだったからこそ、保守であることは決してやさしいことではなかったのです。
 ところが西部以後、保守は誰でも簡単になれるものに変貌してしまいました。「従属慰安婦はいなかった」「南京事件はなかった」などと言いさえすれば、誰でも保守の仲間入りができるようになったというわけです。こうして「保守の通俗化」、「保守の大衆化」が始まりました。
 江藤淳は、自分で「問題」を見出し、自分の頭で考え、自分で調査し、自分で分析して、結論を導きました。例えば、「占領憲法」に「問題点」を見出し、自らアメリカの国立文書資料館に通い、関係資料を発掘し、調査・分析し、「押し付け憲法」の実態を暴露していきました。これに対して、昨今の保守思想家は、「問題」の結論だけを横取り、模倣し、自説のごとく振り回す「パクリ野郎」たちばかりです。
 私は、保守派を名乗っている「ネトウヨ雑誌」を読みません。立ち読みぐらいはした事がありますが。書いている人は、目次を見れば明らかですが、ほぼ素人か、素人に毛の生えた人たちです。学問的業績も思想的業績もゼロ。オヤジたちの居酒屋漫談とオバサンたちの井戸端会議レベル。それを大真面目に読んで、アッサリと洗脳され、熱狂的信者になって、騒いでいるのがネトウヨとかネット右翼とか呼ばれている連中です。まともな読書とは無縁な老若男女の皆さんたち。普段は漫画か週刊誌ぐらいしか読まないので、簡単に活字に洗脳されてしまうのです。

外来の保守思想にかぶれる言論人たち


山崎 西部は、遅れて来た「転向保守」らしく、保守思想家の先輩格である小林秀雄や江藤淳を、バーク理論を使って批判し、保守論壇を「左翼論壇化」しました。それが「保守思想の理論化」です。
金子 確かに、バークの保守思想を持ち出した西部の議論は、エポック・メイキングになりました。しかし、保守論壇の「バークかぶれ」を助長したのは八木秀次氏らだと思います。例えば、『諸君!』(平成十二年八月号)には、八木氏と中川八洋氏、渡部昇一による「エドマンド・バークに学ぶ 保守主義の大道」鼎談が掲載されています。
── 今や中島岳志氏から小川栄太郎氏に至るまで、論壇は「バークかぶれ」だらけです。
金子 「理性の絶対視はだめだ」「設計主義はいけない」といったバーク流の保守主義には、大きな落とし穴があると思います。フランス革命を批判したバークの保守主義は、人間の「理性」の能力に懐疑的で、それに基づく急進的な社会改革・革命を批判する立場です。
 しかし、人間はどうしても理想を求める生き物です。理想を掲げ、現実社会を変えようとすれば、どうしても設計主義的側面が出てきます。逆に、設計主義はいけないとして理想を懐くことまでも否定してしまったら、結局のところ現状を無批判に肯定し、流されてしまうのではないでしょうか。
── 日本の保守派がイギリスの保守思想家の思想を有難がっていることが大きな矛盾です。陸羯南や柳田国男もバークを読んでいましたが、彼らはそれをあからさまに出さない恥じらいを持っていました。そもそもバークが基盤とするキリスト教的価値観は、日本の伝統思想とは異なるものです。しかも、我々は君民一体の國體の回復こそ、保守派が目指すべき最重要課題だと考えていますが、バークは親政論者でもなく、資本主義に対して好意的な考えを持っていました。バークの思想には、國體を重視する我々の考え方とは相容れない部分が少なくありません。
 我々は、日本の本来あるべき姿を描き、そこに回帰するための不断の運動を展開するのが保守だと考えています。バーク流の保守主義に頼っていてはだめです。つまり、現在の保守雑誌には、明治維新や昭和維新の原動力となった國體思想が決定的に欠落しているのです。
山崎 私は、言論人、思想家の劣化こそが問題だと思っています。かつての保守思想家は確固たる専門分野を持っていて、大きな業績、作品を残しました。小林秀雄には『様々なる意匠』や『ドストエフスキイの生活』がありました。福田恒存は『シェイクスピア全集』を翻訳し、田中美知太郎は『プラトン全集』を翻訳しました。江藤淳には『夏目漱石』、三島由紀夫には『金閣寺』をはじめとする多くの作品がありました。ところが、昨今の保守思想家たちには「作品」の名に値する仕事がありません。政治的雑文を書いているだけです。
金子 かつての保守思想家たちは、人間の業を深く見通していました。小林秀雄や三島由紀夫らが共産主義を批判したのは、単なる反共イデオロギーからではなく、個人を抑圧するものとして共産主義をとらえていたからです。彼らの議論の根底には、人間という愚かしくも愛すべき存在に対する深い思いと、そうした人間が織りなしてきた歴史に対する畏敬の念があったように思います。

アメリカ製の義眼を嵌めこまれた日本人


── 次に、国家の独立より対米追従を唱える保守雑誌の問題点について考えたいと思います。いま保守雑誌は、日米同盟を絶対視し、アメリカ政府の主張を代弁するような言説で満ち溢れています。保守派言論人たちは、わが国の主権を踏みにじっている日米地位協定についても沈黙しています。中国に対しては国家主権を主張しますが、アメリカに対しては何も言えないのです。さらに、保守思想家たちは日本とアメリカは自由と民主主義といった価値観を共有していることを強調しています。なぜ、ここまでアメリカに対して卑屈なのか。我々は、占領期のGHQによる検閲によって、わが国の歴史観と独自の思想が封印され、アメリカにとって都合のいい言語空間が作られたことが、今なお尾を引いていると考えています。
山崎 江藤淳は、昭和三十七(一九六二)年にプリンストン大学に留学し、翌年から同大学東洋学科で日本文学史を教えるようになりました。そのままアメリカにいれば、大学教授としての生活が約束されていたはずです。しかし、江藤は昭和三十九年に帰国し、反米保守の立場を固めました。やがて江藤は、日本の言語空間に大きな疑問を抱くに至ります。そして、自らアメリカで一次資料を調査し、平成元年に『閉された言語空間』を刊行、GHQによる検閲の実態を明らかにしたのです。彼は、同書の中で〈昭和四十四年の暮から昭和五十三年の晩秋まで、私は毎月「毎日新聞」に文藝時評を書いていた。……その月の雑誌に発表された文芸作品を読みながら、私は、自分たちがそのなかで呼吸しているはずの言語空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった」と書いています。
── 江藤は「占領軍当局の究極の目的は、いわば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった」と書いています。主権回復後も、日本人はアメリカ製の義眼で世界を見続けてきたのではないでしょうか。そこで重視したいのが、アメリカによる言論工作による影響です。

アメリカによる言論工作と保守雑誌


── アメリカは、昭和二十八(一九五三)年に合衆国広報・文化交流庁(USIA)を発足させ、その海外下部組織の文化交流局(USIS)を通じて世界各地で文化・広報活動、民間財団などによる研究助成、人材交流、出版活動などを展開しました。
 昭和二十九年十二月十日付で、USIA文書「極東への指令とその対象者」が定められ、日本では親米的なジャーナリストや研究者、評論家などに「道徳的、金銭的援助」が与えられるようになりました。たとえば、『経済往来』はUSISの資金援助を得て発行された雑誌です。これらの事実は、国際日本文化研究センター准教授の楠綾子氏が「冷戦と日米知的交流」(『関西学院大学国際学研究』平成二十六年三月)で明らかにしています。
 一方、占領中の昭和二十五(一九五〇)年六月に、反共自由主義の知識人の国際組織である国際文化自由会議(CCF)が発足していました。昭和三十年にはGHQ民間情報教育局(CIE)に勤務していたハバート・パッシンが、社会党右派の理論家・石原萠記をパートナーとしてCCFの日本支部を設立しています。翌昭和三十一年二月に石原を事務局長として発足したのが、「日本文化フォーラム」です。会長に高柳賢三、副会長に尾高朝雄、理事に竹山道雄、関嘉彦、林健太郎、猪木正道、中村菊男、大平善梧、平林たい子らが名を連ねていました。設立から昭和四十四(一九六九)年までの運営資金を出していたのは、アジア財団だとされています。一見、アジア財団は民間組織のように見えますが、昭和二十六年三月にCIAが設立した自由アジア委員会が昭和二十九年に改称して生まれた組織です。
 そして、昭和三十四(一九五九)年十一月に石原らによって創刊されたのが『自由』です。同誌創刊号には林健太郎や関嘉彦らの論稿が掲載されています。
 パッシンらの主導によって、昭和四十二年には日米の民間政策対話「下田会議」がスタートしています。また、パッシンはコロンビア大学で社会学を講じていましたが、彼の教え子の一人が、ジャパン・ハンドラーと呼ばれるジェラルド・カーティスであり、その教え子が小泉進次郎氏です。アメリカによる言論工作は今なお続いていると考える方が自然です。そして、国民の多くが親米的なのは、アメリカの占領政策と言論工作が見事に成功したことを物語っていると思います。
金子 東西冷戦時代には、アメリカだけではなく、ソ連なども日本の政界や言論界に対する工作をしていました。自民党の中にもソ連のエージェントが入り込んでいたと言われています。
── 現在とは比較にならないほど左派の言論が強かったのは事実です。非武装中立論などの主張を展開する、岩波書店の『世界』なども影響力を持っていました。
 こうした中で、猪木正道の弟子の高坂正堯や永井陽之助といった現実主義者の国際政治学が台頭しました。高坂は『中央公論』(昭和三十八年一月号)に「現実主義者の平和論」を書き、やがて現実主義者たちは『諸君!』などの保守雑誌を舞台にその主張を展開するようになります。東西冷戦時代においては、現実主義者の主張は国民に受け入れられましたが、結果的に現状維持を求める言論に陥ってしまったのではないでしょうか。

日本自立派の言論誌─『新論』と『新勢力』


金子 外国勢力の影響力を排除し、本来のジャーナリズムを取り戻そうという動きもありました。昭和三十年七月には、日本浪曼派の保田與重郎らが『新論』を創刊しましたが、その「創刊の辞」には、次のような一節が見られます。
 「終戦以来こゝに十年。待つ者に久しい春秋であつた。思ひを心に抱く者には、さらに長い歳月であつた。この十年を耐へ、遂にこゝに、しかも始めて、我々は日本の国と国民の名にかけて、国民の理想と願望、祈念と信念、そして国の輿論を、正当に示す新しい真の国民総合雑誌をつくり得たのである。……我々は外国にその本拠をおく政治的党派の影響下にあるヂャーナリズムを敵とする。……我々は現行一切のヂャーナリズムを否定排撃し、孤城によつて、正義をとなへ、ヂャーナリズムの正風の回復を期するのである」
 創刊号には、高山岩男らの京都学派、鳩山一郎内閣で内閣経済企画庁長官を務めた高碕達之助、さらには服部卓四郎、藤原岩市、今村均といった旧軍人たちが執筆しています。創刊号は十万部刷り、実売数は七万五千に達したと言われています。当初、日経連は二千万円を支援しましたが、結局編集方針をめぐって折り合わなかったのでしょうか、七号で廃刊に追い込まれています。
 私が編集長を務めている『国体文化』や大東塾・不二歌道会の『不二』などの媒体は、非営利の機関誌だから刊行を何とか継続できていますが、商業ベースに乗せるのは容易なことではありません。保守雑誌が、国民的な言論誌として発展していくためには、資金の問題は避けて通れないのです。
山崎 本物の文学者はカネでは動きません。文学の真髄は商業誌ではなく、同人誌にあります。文学を支えていた同人誌が商業誌を目指したために、文学までもが商業化してしまったのです。結局、商業誌はカネに転ぶ運命にあるのかもしれません。最近のネトウヨ雑誌の惨状を見れば一目瞭然です。
── 昭和三十一年八月に毛呂清輝が創刊した『新勢力』にも、戦後的な保守と一線を画した自主独立の気概を強く感じます。毛呂は戦前、神兵隊事件に参加したり、片岡駿や中村武彦とともに『維新公論』を立ち上げたりするなど、昭和維新運動に挺身した人物です。三上卓門下の花房東洋氏は、「毛呂先生の人間的魅力に支えられて、民族派だけではなく、尾崎士郎といった文人や、警視総監を務めた秦野章、作詞家の川内康範など幅広い人々が『新勢力』に協力していました」と語っています。
 対米自立を鮮明にする言論紙としては、一水会が昭和五十年に創刊した『レコンキスタ』がありますが、当初一水会は飯田橋にあった『新勢力』の事務所に間借りしていました。

いかにして『諸君』と『正論』は創刊されたのか

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