町田康著「くっすん大黒」(96年芥川賞作品候補)

    町田 康「くっすん大黒」  
         2017年2月4日 読書会担当   石野夏実
     ※17年当時の同人誌の読書会記録と資料です。


2月の読書会は、節分明け立春の4日に、同人13名+見学の方1名の参加で行われた。 当番時、私はなるべく未読で未知の作家に挑戦することにしている。
自分が読んでみたいと思う芥川賞作家の、それは受賞作品でなくてもよいが、なるべく作家の初期の作品であること、強烈な処女作であれば尚良し、を選択基準に。
前々回の西村賢太、今回の町田康が、そうであった。
今月は、高校生の早い時期からロック(パンクロック)バンドを組み、詩人でもあり映画にも出演した町田康の若き日の面構えが興味深かったので、彼を取り上げることにした。
氏は「きれぎれ」という作品で芥川賞を受賞したのであるが、この「くっすん大黒」という小説は、それ以前に芥川賞候補になった処女作である。

題名が気に入ったのと、「きれぎれ」よりも読みやすかったので読書本とした。
尚、「くっすん大黒」が1996年下半期芥川賞最終候補になりながらも落選した時の受賞者と作品は、柳美里「家族シネマ」と辻仁成「海峡の光」であった。
選考委員の黒井千次氏のコメント「前半と後半に分断が見られ、意図の達成の阻まれた感があるが、このエネルギーとスタイルは見守っていきたいものである」は、町田氏にとって大きな励みとなったであろう。

氏は、2000年に「きれぎれ」で芥川賞受賞後は、毎年のように数々の文学賞を受賞した。彼の文学を評価する、しないに関わらず、実績として文学賞史に彼の名は残る。
亡くなってから初めて真の評価が定まるのであるならば、氏の評価は、いかなるものになろうか、興味深いものである。

今回、同人方の読後感は以下の通り。
☆文学の多様性を感じた。この作品はシニシズムと傍観主義であると感じた。

☆「きれぎれ」を読んだことがある。面白かった。

☆話し言葉で書いてある。若者の感性についていかれない所があるとわかり難い。

☆破壊性。形式の破壊性。詩人なのでリズムがある。文学の多様性を感じた。

☆賞を多くとっているが、読んだことがなかった。辻仁成の受賞作の方が主人公に入り込めるが、氏の作品は主人公に入っていけない。感性がサラリーマンには理解ができない。

☆河内音頭で、頭の中に浮かんだものをリズム感よく並べていくが感動を呼ばなかった。

☆20年前に読んだことがある。大黒以外中味は忘れていた。関西文学の伝統を受けているが一気に読ませる割には、残るものが少ない。

☆ギブアップで読めなかった。これが関西文学なのか。

☆魅力の半分は文体である。自分を笑える人。落ち込んだ時、悲しい時に読みたい。

☆驚愕した。リズミカルではあるがリリカルなものが欲しい。最後の文章、なぜ豆屋なのか。

☆不条理、詩的、流れを持たせているが意味がない。 最終的に残るものは、大きな優しさか。

以上、同人の方々の感想でした。


<担当の感想>
ストーリーよりも文体のリズム感が勝る。電車の中で読んでいても声に出して笑ってしまう可笑しさ。その「笑かす」(わらかす=大阪弁。笑わせるの意味)手法。
それ以上のものが残らない一時の笑いの連打。
ところが、立たない大黒は、主人公そのものであり、あなたであり、私でもある。
最後の「豆屋でござい、わたしは豆屋ですよ」は、とても謎めいた大声での叫びなのだった。
「まめ」には、忠実、健康、実直、勤勉、誠実など、いい加減な主人公「くっすん」とは正反対の意味がある言葉であった。

<プロフィール(新潮社HPより)>
 
 1962(昭和37)年大阪府生れ。町田町蔵の名で歌手活動を始め、1981年パンクバンド「INU」の『メシ喰うな!』でレコードデビュー。俳優としても活躍する。1996(平成8)年、初の小説「くっすん大黒」を発表、同作は翌1997年Bunkamuraドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞を受賞した。以降、2000年「きれぎれ」で芥川賞、2001年詩集『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、2002年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他の著書に『夫婦茶碗』『猫にかまけて』『ゴランノスポン』『湖畔の愛』『しらふで生きる 大酒飲みの決断』「スピンク」シリーズなど多数。
 
 
<担当からのおすすめは選りすぐりの解説者>
 
今回の読書本以外に、参考図書として文庫の小説「きれぎれ」「夫婦茶碗」、文庫の詩集「町田康詩集」、ハードカバーの随筆集「常識の路上」を読んだ(但し各々完読できてはいない)
文庫の解説を読むのが好きなので、巻末に興味ある筆者の名前を見つけたら何が書いてあるのか知りたくて、読むことが楽しみなのである。
今回の町田康の文庫の解説は、上記文庫3冊とも最高だった。
 
「きれぎれ」は「町田康は粋(いき)である。」の文から始まる池澤夏樹の解説である。
解説を加えるのは野暮の極みで絵解きしてどうするか、と初っ端から過激な発言。しかし解説文は続く。的を得ているので頷きながら吹き出してしまった。
 
「夫婦茶碗」の解説は筒井康隆大先生で、実にユニークであった。ご自分と町田康を、各々の作品も共通するものが極めて多いので、作者や作品への誉め言葉はおおむね自分への自己評価であると思っていただいてよいと、さすがの理屈で説得されてしまった。
「高度に屈折し続ける知性からは、思考実験というものが生まれ、知的なものであったりどれだけバカになり切れるかを追求する思考実験でもある」と。
「くっすん大黒」をとても褒めていて、ある賞を取ったのは自分のお陰、と自画自賛。
町田康考は"狂気や、いい加減さから遠くに離れた場所にいるのに、それらに憧れ、描き、嫌悪する。常識があるからこそ非常識が描ける、それは自分と呼応する。だから第一級の文学者の資質がある”とほめちぎっている。
 
「町田康詩集」の解説は荒川洋治である。詩人ではなく現代詩作家であるとご本人が命名している方である。
この方は、かって吉本隆明がべた褒めしていた詩人で、そのころの詩しか読んだことがない。
その荒川氏が引用しているのは「僕の言葉はもうなんの意味もない水だ」(「土間のブチャラン」)
この一文は、読み手の私にはすごくインパクトがあって迫りくる表現であったが、この一行だけが気に入っていて前後の表現はあえて好かないという詩が他にもいろいろ。
荒川氏は「町田康の詩は自分の内部だけでなくまわりにあるものを、すべて言葉にしようとする」と書いていた。
詩だけに限らず小説も同じであると思った。

小説においても詩においても、町田康はとりとめもなく全てを言葉で表現する。物体でも状況でも心境でも、ありとあらゆるものを、時にはリズムに乗せて思いついた言葉で表現しようとするから騒々しくうっとおしく、ハッとさせられ、笑わせられ、悲喜こもごも混沌の中で、すとんと終わってゆく。永遠に続けるわけにはいかないからかもしれない。紙の上では大のおしゃべりなのだ。実際は知らないが。 
 


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