ウォン・カーウァイの香港映画④「楽園の瑕」(1994)※終極版(2008)

        2023年8月  石野夏実
 
原題は「東邪西毒」で英題は「Ashes of time」(時の灰、燃え殻)※終極版には「Redux」(復刻)がつく。
邦題「楽園の瑕」の「瑕」は「きず」と読み意味は「過失」。
私が観たのは最初に作られた1994年のものではなく、2008年の終極版であった。終極版の方が分かりやすいと言われているが、それでも分かりにくい。
 
この映画の背景は、12世紀の南宋末期の西域の砂漠である。
その地で休憩所を営みながら何でも、殺しさえも請け負う元締めの欧陽峰(レスリー・チャン)が主人公。
過去を忘れる「酔生夢死」の酒を持ち、訪ねてきた友人の黄薬師(レオン・カーフェイ 1958~)。
職探しの盲目の剣士(トニー・レオン)。
のちに蛮族の首領となる野暮ったいが腕の立つ洪七(ジャッキー・チュン)他に女の依頼人など。
各人が様々な過去を持つ。
こんな砂漠の地の果てでさえも、一人一人が心に抱く過去の瑕は「恋の瑕」なのだった。 
私は中国の時代劇ものの原作はいちども読んだことがなく、漢字の難しい名前を覚えるのも苦手である。
この作品は全く原作通りではないストーリーと書かれてはいるが、登場人物は同じ名前のようであり、原作は金庸の「射鵰英雄伝」とのことである。
 
ザ・シネマメンバーズで一度だけ観た時の「楽園の瑕」は、予備知識もなかったため登場人物の呼び名も難しく、相関関係も複雑で理解ができなかった。そのためにストーリーの面白さも全く感じなかった。
しかし映像は、いつにもまして幻想的ではあった。
この作品で撮影のクリストファー・ドイルと監督は、ヴェネチア国際映画祭で撮影部門の金賞を受賞した。
今回DVDのリプレイで確かめながら観て、やっと内容の把握ができた。
であるから映画館でいちど観るだけでは評価が低いのは当然と言えよう。
いちど観ただけでは何が何だかわからないはずだ。
この場面はいったい何なのだ? と繰り返し観ては、また考えるの繰り返し。本来、それでは映画鑑賞の意味がない。
映画は映画館で一度観るだけのお約束の娯楽なのだ、とも言いたくなる。 

ウォン・カーウァイ監督の作品については、観て受けた新鮮な感覚を直感的に整理しないと観たことにはならないだろうと思うが、直感第一なので、評価するまでにそれほど時間はかからない。
「スゴ!」という今風の感覚表現でいいと思う。
しかしこの映画は、複雑すぎて単純にそれができない。
ひと言でいえば登場人物の多いシュールな前衛映画なのである。

大スターを何人も出演させ、音楽も贅沢にヨーヨーマのチェロが流れる大作(終極版)なので、単純明快な武侠娯楽映画と思ってはいけないのであった。
どこまでも、ウォン・カーウァイの世界で出来た時代劇である、との先入観が必要だ。
香港では、この映画を観て怒る観客もいたそうで、暴動騒ぎがあったともいわれているが、評論家の間でも傑作駄作の大論争が起こったといわれている。
前衛映画の大作だと思わなければ理解不能なレベルなのだろう。

ロケ地は、本物の黄砂が舞い上がるタクマラカンかゴビの砂漠だと思う。
美しい砂漠の映像。何もない砂の世界で人が生計を立てていること自体が全く幻想的であった。 
究極、映画は目で見て、音を聞き、何かを感じればそれでいい。
邦題の「楽園の瑕」の命名が、魔訶不思議なこの映画の世界を如実に表している。

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