永井龍男著「青梅雨」及び「一個」(1965~66年作品)

永井龍男「青梅雨」「一個」 読書会 
        2018年4月7日開催  担当  石野夏実
  ※18年当時の同人誌の読書会記録と配布資料です。

4月の読書会は、13名の同人の参加で7日に行われた。
前日と当日の2日間は、季節外れの台風並みの強風に執拗に見舞われたが、幸いにも会が始まる夕方からはその風も収まった。 例年なら梅雨入りは6月であるが、異常気象の昨今、今年はいかがであろうか。

今回の読書本は永井龍男の短編「青梅雨」(あおつゆ)と「一個」(いっこ)を選んだ。 今までの当番時には芥川賞作家を取り上げてきたのであるが、 今年はその芥川賞・直木賞の設立に常任理事として事務に携わった永井龍男を勉強することにした。
戦前、戦中は文芸春秋社の各誌編集長としても名高く、 戦後はGHQの公職追放により文筆生活一本になり、長らく芥川賞の選考委員でもあった。
氏は、1904年(明治37)に生まれ1990年(平成2)に86歳で亡くなった。 明治、大正、昭和、平成を生き、激動の20世紀を見てきた。
素人から大作家まで、どれほど多くの人と出会いその文学作品を読んできたことであろうか。

戦後の短編小説の達人と言われてきたが、俳句の人でもあった。 文章の簡潔さと短編のまとめ具合は、確かに俳句と共通するものを強く感じた。 今回の2作品は1965~66年(昭和40~41)頃の作品である。

<作品紹介>

「青梅雨」
 
青梅雨(あおつゆ)は俳句の季語である。新緑に降り注ぐ梅雨のことを指す。
梅雨を浴びてすくすくと育つ木々の青葉、草花などを連想しながら用いる。単に「梅雨」と用いる場合よりも、明るい印象が強いとのことであるが、俳句の名手ともいわれる永井龍男がこの短編の題に何故使用したのか。

この短編は、事業に失敗し大金の返済に迫られる働き手もいない高齢者世帯が、エンドレスの借金地獄から解放されるための一家心中の話である。
50万円の借金の元金は減らず、律儀に返し続ける毎月の利子2万2500円の返済は一家の生活を困窮させていた。
老いた主人公の田中千三(77)と病弱な妻ひで(67)、その妻の元担当看護師であり今は養女になっている春枝(51)、妻の実姉ゆき(72)の大人所帯4人の話であるが、全員納得して準備万端整えた上での覚悟の心中なのである。
何度もの話し合いの末の、心中決行当日の一日の終わりの夜の様子を、会話を交えながら淡々と描いていく。
交わす会話は日常的で取り乱した様子はなく、吹っ切れた乾いた明るささえも感じ取れる。
死に向かう情景を単に「梅雨」ではなく「青梅雨」と命名したことで、この物語は無理心中ではなく合意納得の上での心中としたかったのではないだろうか。
人は「生(いきること)」と同様に「死(おわらせる)」をも選択できる。
「誠なき 今の浮世を暮らすより 四人ともども 死出の旅路に」が辞世である。
四人の中で、春枝は他の三人に比べまだ若い。ただし医者通いをしている。その彼女が集めた睡眠薬での服毒心中であった。

「一個」

 この新潮文庫の短編集には、甲乙つけがたい、これぞ短編という作品がこれでもかというほど並んでいて、どれを採っても良かったのではあるが、プロの作家たちに人気の高い「一個」にした。
2か月後に定年退職=失業を控え、再就職もままならず不眠症でノイローゼの男の妄想ばかりの物語である。
青梅雨とは真逆の、脳内でぐるぐる回る、実際には吐き出されない会話の場面が連続する、シュールな小説なのである。
題名の「一個」の意味するものは、何であろう。 「いっこ」の時計なのか個人の「個」なのか、作者の意図を知りたいところである。
 
<同人方の意見>

☆ 文章が新鮮で衰えがない。「青梅雨」は会話が多く、会話の妙がある。 暗い話であるはずなのだが、明るく過ごすところにジーンときた。「一個」はパラレルワールド。新しい作風の短編のバイブルになったのではないか。

☆ 名文というよりも、社会のとらえ方がこの時代にあっては斬新。 「青梅雨」は、最近とみに増えている一家心中をサラッととらえている。現実的にはあり得ない。 「一個」の電車の中の話は面白い。

☆ 短編の名手というよりはリアリズムの名手であろう。菊池寛の手法の影響も強いのかもしれない。 編集者として細部を見る目が備わっている。

☆ 古いというよりは、現代の礎になっている感がする。菊池寛の短編の凄さ上手さにまでは到達していない。 「一個」は斬新だった。

☆ 自分の創作には参考にならなかった。的に言葉が当たらなかった。                    

☆ 端正な文章であるが、違和感があった。「一個」では時計の掘り下げが足りない。 日本文学のあっさりしていて淡白な弱さ、暗さが目立ち文学としての豊かさがない。

☆ 暗い話だった。

☆ 簡潔な文章であった。近代小説の特質はリアリズムであり虚構を通して抉り出すのがその役割であるが、 三人称の客観的描写で書くのは難しい。ゆえに、多くの人は私小説の世界に逃げ込むが、 「一個」は三人称の一元描写、「青梅雨」は、多元視点であり最後は三人称の神視点(GOD)でまとめている。 この特徴的な技法を見出したのではないだろうか。

☆ 技術的に大したものである。目が肥えている。悲しい話を悲しいと書いてはいけないのがわかっている職人芸。

☆ 作品として成り立たせる奥の深さ。

☆ 「青梅雨」の題名に一家の切なさをみる。「一個」とは何なのだろう。

☆ 日本人だからわかる小説。余分な言葉はなく、読者に考えなさいと提示して答えを出させる。 俳句も短歌も同様である。O・ヘンリーの小説と似ている。「一個」は一個人としての「一個」。   
※以上が同人方の感想でした。

<担当感想>
昨年後半にふとしたきっかけで永井龍男の短編集に触れ、短編の妙というものの奥深さに感動しました。
物語の面白さスケールの大きさに心ときめかせて読む長編とは違って、 短編は着眼、切り口、切れ味で読者に迫るものであることを、永井作品を通して実感しました。
良い短編は何度も読み直し、 ひとことに託された事柄を推測する楽しみがこれほど湧いてくるものであろうとは、思いもよりませんでした。
戦後のまだ貧しい頃の話が多いのですが、人の心は不変で普遍。
あの時代の懐かしさも手伝って、 今年は昭和文学の作家の短編を色々読んでいこうと思っています。

<さいごに>
数年前の読書当番で中上健次の芥川賞受賞作「岬」を取り上げた。選者達の中で永井龍男は、この作品を含め中上の3度候補に挙がった作品すべてに良い点数をつけていた。
中上の作品を高評価した永井は、プロの編集者としても名高く、戦後公職を追われてからは小説家として生きてきた。
短編の名手と呼ばれていたが、私は永井の作品を昨年まで一度も読んだことがなく、たまたま中古で手に入れた昭和文学全集に入っていた氏の何篇かを読んで、その文章の簡潔さと短編のキリっとしたまとめ具合に、目からウロコが落ちた。
永井龍男は、誰もが認める戦後短編小説の達人であったと思う。


以下の<生涯>と<芥川賞について>は、Wikipediaからの引用です

<生涯>

東京市神田区猿楽町(現在の東京都千代田区猿楽町)に、父教治郎 - 母ヱツの、四男一女の末子として生まれた。父親は本所割下水の御家人の次男で、永井家に夫婦養子として入り、印刷所の校正係をしていた。母は築地活版所の印刷職工の娘[1]兄も欧文植字工、叔父も印刷所勤務と印刷関係者が多い一族。1911年(明治44年)(7歳)、錦華尋常小学校へ入学、1919年(大正8年)(15歳)、一ツ橋高等小学校を卒業。父の病弱のため進学を諦め、米穀取引所仲買店に勤めたが、胸を病み3ヶ月で退職した。同年11月、父没。

1920年(大正9年)(16歳)、文芸誌『サンエス』に投稿した「活版屋の話」が当選。16年年長の選者菊池寛の知遇を得る。1922年帝国劇場の募集脚本に「出産」が当選。1923年(大正12年)、「黒い御飯」が創刊直後の『文藝春秋』誌に掲載。1924年、小林秀雄石丸重治河上徹太郎富永太郎らと同人誌『山繭』を刊行する。

1927年(昭和2年)(23歳)、文藝春秋社に就職を希望し菊池寛社長を訪ね、居合わせた横光利一の口利きにより入社。『手帖』、『創作月刊』、『婦人サロン』の編集につぎつぎに当たった。1932年、『オール讀物』の、次いで『文芸通信』の編集長となった。編集者生活の傍らで創作の発表も続けた。

1934年1月、久保田万太郎夫妻の媒酌により、久米正雄夫人の妹の奧野悦子と結婚。女児2人が生まれた。同年11月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在の鎌倉市)に移る。以後転居を度々行ったが鎌倉市で終生居住した。

1935年(31歳)、1月に創設された芥川賞直木賞の常任理事として3年間両賞の事務を取った。同年3月、母没。1939年、『文藝春秋』誌の編集長、1940年、文藝春秋社の編集局次長となった。

1943年(昭和18年)4月、文藝春秋社取締役。同年11月、満洲国新京市(現在の中国東北部長春市)に単身赴任し、満洲文藝春秋社を設立した。翌年一時帰国し、太平洋戦争末期の混乱のため東京の本社に留まる。1945年3月、文藝春秋社専務取締役となった。

戦後の1945年12月、文藝春秋社に辞表を出し、1946年1月、『新夕刊』林房雄小林秀雄らと創刊したが、1947年10月(43歳)、GHQ公職追放され、文筆生活への専念を余儀なくされた。1948年追放解除とともに日比谷出版社取締役社長となり、復活した直木賞を二回同社『文芸読物』で担当するも同社が倒産。以降は雑誌、新聞、週刊誌に、作品を発表した。

1952年(昭和27年)上期から1957(昭和32年)下期まで直木賞選考委員を、1958年(昭和33年)上期から1977年(昭和52年)下期まで芥川賞選考委員を務めた。

1966年(62歳)、『一個 その他』などの文業により日本芸術院賞受賞[。1968年、日本芸術院の会員に選任される。1972年、長年の作家活動により第20回菊池寛賞を受賞。

1974年(70歳)、勲二等瑞宝章を受章。1975年には『秋』により第2回川端康成文学賞を受賞した。

1976年(72歳)、村上龍限りなく透明に近いブルー」への授賞に抗議し選評「老婆心」を提出、芥川賞選考委員辞任を申し出る。日本文学振興会職員に慰留を受け提出選評「老婆心」末尾、菊池寛文章引用部分を削除する。この事件は外に洩れなかった。

1977年(73歳)、池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞受賞決定に対して、選評で「空虚な痴態」と断じ、前々回での「限りなく」も取り上げ、「前衛的な作品」と述べつつ全否定の見解を述べ委員を退任。

1981年(77歳)、文化勲章受章。翌年にかけ『永井龍男全集』(全12巻)を、講談社より刊行。

1985年(81歳)、開館した鎌倉文学館の初代館長に迎えられる。

1990年(平成2年)10月12日心筋梗塞により横浜栄労災病院で死去。享年86。

<芥川賞について>

1934年菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞ノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成佐藤春夫山本有三瀧井孝作ら11名があたることになった。

芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている[4]1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており[5]1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している[6]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年石原慎太郎太陽の季節」の受賞である[注釈 1]。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした[5]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた[7]。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。

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