ウォン・カーウァイの香港映画⑥「ブエノスアイレス」(1997)
2023年8月 石野夏実
原題は「春光乍洩」で意味は雲間から差し込む春光の様子。英題は「Happy Together」。
男女の恋人同士でも、思っていることと反対のことを言い合ったり反発でしか動けないペアがいるように、ゲイのふたりにだって、喧嘩ばかりしていて一緒にいれば気持ちとは別の行動に出てしまうペアもいるようだ。
素直になれない、謝ることができない、優しい言葉がかけられない、そんなふたりがこの映画の主人公のふたり。香港からアルゼンチンにやってきたファイ役のトニー・レオンとウィン役のレスリー・チャンである。
日本語で「腐れ縁」という言葉があるが「離れようとしても離れられない関係」を意味する。ふたりの関係は、まさにそれであった。
後半、台湾出身のチャンという若者が登場するまでは…
「天使の涙=堕落天使(1995)」公開の2年後はゲイの映画「ブエノスアイレス」であった。今回は香港ではなく香港から真裏にある南米最南端の国アルゼンチンのブエノスアイレスが舞台である。
公開は1997年、まさにこの年、香港が英国から中国に返還された年であった。途中の映像には、返還を見ることなくその年の2月に亡くなった鄧小平死去のテレビニュース画面も混ぜてあり、初めて政治的な画(え)が出たと思った。
ファイとウィンは「やり直す」ために香港を離れ、アルゼンチンへやってきた。ファイが父親の紹介で働いていた会社の金を盗み、逃亡先に選んだのがアルゼンチンだった。
香港から一番遠く離れた場所ということで選んだ国だったのであるが、世界最大のイグアスの滝(アルゼンチンとブラジルの境界にある)を見に長距離バスなら30時間もかかるので、オンボロ車を購入してその地へ向かった。道には迷うしオンボロ車はエンストばかりで、とうとう喧嘩別れ…
ファイは中国系の観光客が遊びに来るタンゴバーのドアマンを仕事にし、部屋も借りてひとりで生活していた。
その部屋には、ふたりで行かれなかったイグアスの滝の走馬灯風ランプが飾ってある。ふたりの関係の象徴のようなモノだ。
ふたりの性分は、ファイはちゃんと働くし日常生活も送れるが、ウィンは感情的で短気だ。働かないので普通の生活ができない。
自分勝手なウィンに振り回されてばかりのファイである。だからといってファイはウィンと別れることもできないでいる。
帰りの飛行機代(アルゼンチン→香港)はかなり高額であると思われるが、ウィンが使ってしまって帰りたいのに帰れないのであった。
ある晩、タンゴバーに男(パトロン)と来たウインは羽振りが良さそうだった。その男から高そうな時計を盗みファイに渡した。帰りの飛行機代の弁償だった。ファイは突き返さずにお金に換えた。
じきに、時計の件で殴られたウィンがやってきたので時計を買い戻しウィンに渡したが、時すでに遅し。
半殺しにされたウィンが、ファイのアパートの部屋に両手を血まみれにして倒れこんできた。
病院へ連れていき甲斐甲斐しく世話をするファイであった。
ウィンは、ひと所にじっとしていられない性分であるようだが、両手は包帯でぐるぐるに巻かれ何もできない。寝ている以外することもなく、転がり込んできたのに主導権はわがままなウィンにある。
しかし束の間の平穏ではある。
ひとりの時はコンビニでサンドイッチを買って食べるファイであったが、ウィンが来てからは共同炊事場で広東料理を作るのであった。
そしてふたりは、部屋や炊事場で抱き合いタンゴを踊る。
この映画での一番の見せ場だ。
バーのドアマンの仕事を辞めてから中華料理店の厨房で働きだしたファイであったが、アパートに居るウィンに頻繁に電話をかける。
まるで女性の恋人と話しているようなので、後輩のチャン=チャン・チェン(1974~)にからかわれる。チャンは旅行しながら行く先々で旅費を稼ぎ、また旅に出る短期逗留者だ。
チャンは、子どものころ目が悪くてよく見えなかったので耳が発達し、目は治ったけれど今でも耳はかなり鋭いと言う。
「耳って目より大切だと思う。耳は心の奥まで察知できる。幸せなふりをしても声は嘘をつけないから、声で全てわかる。先輩は今、幸せじゃあない」
チャンは後片付けや仕事もきちんとこなし、短い期間ではあるが可愛い弟分のような存在になっていった。
ふたりで飲んだ夜、酔ってしまったファイをアパートの部屋まで送ったチャンであったが、ベッドに半裸のファイを寝かせ、そのまま部屋を去った。
一線を越えない年下の青年との友情。
ファイにとってチャンの登場は、新しい恋へ進むかどうかは別にしても、抜け出すことができない沼のような関係のウィンとの別れのきっかけになった。
旅費がたまったというチャン。飲みに行くのも、この日が最後の夜になった。
チャン「お互いの友情に乾杯しよう」
ファイ「カネは十分に?」
チャン「ためた」
最南端のウスワイアという町に行ってみるというチャン。
「寒いところだぞ」とファイが言う。
チャン「世界の果てに行ってみたいんだ。行ってみた?」
ファイ(首を振りながら)「灯台があって、そこで悩み事を捨てられるそうだ」
チャン「皆、捨てた?」
ファイ「さあな、どうだか」
チャン「何か言って」(携帯録音機をポケットから取り出す)
ファイ「どうして」
チャン「先輩は友だちだ。写真は嫌いだから記念に声を」
ファイ「何を話す?」
チャン「何でもいいから。悩み事みたいな悲しい内容でもいいよ。灯台で捨てる」
ファイ「悲しくないさ」
チャン「じゃあ、楽しい話を録音しておいて。踊ってくる」(渡してホールへ行く)
ファイは録音機に何か話そうとして泣いている。
チャンが戻ってきた。
アパートの入り口まで送ってくれ、別れの時が来た。
チャン「大丈夫?」
ファイ「もう行け」
チャン「元気でいてね、また会えるといい」
同時のタイミングで抱き合うふたり。
ファイのモノローグが流れる。
《思いは伝わったか。聴こえたのは俺の激しい鼓動だけ。彼は聴いたか》
ウォン・カーウァイの映画はモノローグが多い。トニー・レオンの声ははっきりしている割に心地よいのでモノローグに相応しい。
今回観直して気付いたのであるが、トニーとレスリーのふたりは背丈も声質も似ているのである。
顔は全く似ていないので間違うことはないし、話し方の抑揚も違う。
トニーはサラリーマンから警官まで色々な役に違和感なく成りきれるが、レスリーは職なしの不良の役がピッタリだ。
だからこの作品は、トニーとレスリーのふたりの個性があってこその映画なのだった。
監督はカンヌ映画祭の記念すべき第50回の最優秀監督賞を、この作品で受賞した。
映画の中でレスリーが愛用していた革のジャケットがサザビーズに出品された時、監督は言った。
「この黄色のジャケットは『優しさ、反抗、孤独』といった(レスリーの)印象的な存在を象徴している」と。
サッカー場、空飛ぶ飛行機、時は流れて…
夜の街を彷徨うファイのモノローグ《俺は違うと思っても、結局孤独な人間はみな同じだ》
男を求め公衆トイレや映画館に。
さすがに虚しくなり、思い切って香港の父に無沙汰と謝罪の電話をした。
その後、クリスマスカードを書きそれは長い手紙になり最後に「やり直したい」と書いた。
今まで何度も「やり直そう」とウィンはファイに言って戻ってきた。ふたりの「やり直す」は「元に戻る」ということだった。
ファイが父に約束した「やり直す」は「新しくここから生き直す」という意味なのであろう。「後退」と「前進」とは、全く違う生き方の選択だ。
ファイは牛肉の食肉工場で働き始めた。一生懸命に肉体労働をするファイがいる。
ある日、ファイのもとへウィンからパスポートを返せと電話が来た。
《返すのはいいが会うのが怖い》とファイのモノローグ。
「やり直す」ことになると、元に戻ることになる。後戻りは、もう嫌だった。
あの部屋に帰るのが嫌で休日も仕事をした。ウィンのことは気になるが、今度は強く決心をした。
牛の肉塊から出た赤色の血の床を、何度も洗い流すファイだった。
ファイは香港に戻る前に、一人であの時のように車を運転し「イグアスの滝」を見に行った。今度は、横にウィンはいない。
ファイのモノローグ《ついに滝へ。ウィンを思い出し悲しくなった。いるはずの彼がいないから》
水しぶきと涙でずぶ濡れのファイ。ピアソラの哀愁のタンゴが流れる名場面だ。
「イグアスの滝」は世界最大の滝で、その大瀑布は「悪魔の喉笛」と呼ばれ最大落差は80メートル以上あるという。水しぶきに打たれるファイの決意は堅い。
その頃ウィンは、ファイがいなくなった部屋を掃除し好みのたばこを大量に並べ床を拭き、ファイの毛布を抱え泣くのであった。
もうこの地には戻らないであろう恋人を想いながら。
かってファイは、ウィンのパスポートを隠した。彼の気ままな自由を奪いたかったのだ。彼を縛りたかった。
今回は、香港へ帰る自分を追わせないために返さなかったのかもしれない。ウィンを自由にすると自分が不自由になる。
ウィンを不自由にするとファイは自由になれる。
ファイはチャンの故郷の台北に1泊して香港に帰ることにした。台北の夜店でチャンの実家が営んでいる食堂を見つけたが名乗らず食事した。帰り際、チャンから送られてきて飾ってあった写真を1枚盗ってきた。
《俺は確信した。会いたいとさえ思えば、いつでもどこでも会えることを》素直に読めば、チャンに対する心情であろうが、先には進めない関係である。
パスポートのウィンの写真とチャンの灯台での写真。
写真だけを抱えて未来を生きていけるのだろうか、この先ずっと。
おそらく無理だと思う。
愛する人が横にいない人生は空虚だ。
愛する人を求めてこの先の人生を生きていくのだと思う。
チャンは友情だけの若者なので、ウィンのところに戻るしかないが、それもないだろう。
命がけの恋なんて、一生に一度あるかないかだと思う。
台湾、香港、中国本土、3つの土地の関係は、2023年の現在よりあの頃の方が良かったのではないだろうか。
1997年の香港返還時に公開された記念すべきウォン・カーウァイ監督のこの作品は、狭い香港から飛び出して一番遠くの最南端アルゼンチンを舞台にした。
カエタ―ノ・ヴェローゾが歌う「ククルクク・パロマ」が流れるイグアスの滝の世界へ、観客を南米へと誘った。
監督は言う。(以下、DVD映像特典のインタビューから)
サウンドトラックについて=作品において音楽は非常に重要な役割を果たします。私は場面の雰囲気に合った音楽を選ぶようにしています。映画を構成するのは映像と音。音楽は音の一部を担います。舞台となる所で、最も耳にする音や音楽を作品に選ぶのです。
今回のロケ地は、南米のアルゼンチンでした。町中で一番頻繁に耳に聴えていたのがサッカーのテレビ中継と中南米の音楽だったのです。そういった理由で音楽は南米のものを選びました。
以前から集めていた中から選ぶ場合もありますが例えば、ピアソラの作品などの場合は飛行場で買ったCDが良かったので使いました。「ククルクク・パロマ」は以前、中国語に翻訳されて香港でもよく歌われていたのです。
我々香港人にとっては、とても馴染み深い曲なので今回は作品の中で使ってみました。
* * *
私はこの映画を繰り返し観てから、ウォン・カーウァイ作品のなかで一番好きなのが「ブエノスアイレス」になった。因みにクリストファー・ドイルも一番好きな作品は「ブエノスアイレス」であるそうだ。
レスリー・チャンとトニー・レオンのふたりの個性が絡み合い格闘し合い作り上げた「どうにもなりようがない恋の物語」だと思う。
九七年の香港返還年に相応しい共演映画となった。
色々なものを読むと、監督は2人の恋愛映画だと言い切っている。確かにひとつの恋が終わるところまで描かれている。
心の痛みは時間の経過で徐々に弱くはなるとしても、全く痛みが消えることはない。古傷は時として疼くし、感傷の涙も同様に流れては乾く。