南木佳士作「ダイヤモンドダスト」(1989年第100回芥川賞受賞作)
南木佳士(なぎけいし)作「ダイヤモンドダスト」感想
2021.6.24記 石野夏実
※同人誌の21年7月読書会テーマ本の感想です。数字等は当時のままです。
今回の読書本「ダイヤモンドダスト」は、芥川賞の節目である第100回(1989年 昭和64年/平成元年)受賞作品に相応しい硬質な純文学の小説であった。
主人公は、保育園児のひとり息子正史を、右半身まひの父親松吉と共に暮らす中で育てる看護士の和夫。
この一家は、2代続けて妻に先立たれ、男手で息子を育てた(育てている)男所帯だ。
正史の成長くらいしか楽しみがない日々の暮らしの中で、隣家の幼馴染で高校まで同じの悦子が、アメリカから帰って来ていた。
1年を日本とカリフォルニアで半年ずつ交互に暮らす悦子は、おそらく地元では目立つ存在であろう。
脳卒中で倒れ退院した松吉は、正史の送迎を再開していた。その様子を見かねた悦子は、正史の保育園の送迎を買って出た。
その後、松吉は台所で脳卒中の再発を起こして再入院。悦子は食事の支度までしてくれることになった。
幼馴染という以上に互いに好意を持っている様子は、恋が始まる予感もしたが、それは成らなかった。体が不自由な父親と就学前の息子、踏み切れない和夫の心情を素早く悦子は汲み取っていたのだろうか。
あるいは彼女の方に事情があったのかもしれない。
これは最後の方でわかることだが、カリフォルニアに望んでいた就職口が見つかり戻ると言う悦子に「ちょっと待ってくれよ」とか「なんとかならないかな」と和夫は食い下がった。悦子の決心は堅かった。
この土地は、大規模な別荘ブームに乗って、土地持ちの地元住民達(農家)は成金になる者も多くいた。悦子の余裕のある暮らしぶりも、それから来ているのだろう。
和夫が小4の時、看護婦であった母は、肝炎で亡くなった。(医療事故による劇症肝炎)
地元電鉄の運転手であった松吉は、電気鉄道が廃止される時期に妻の死もあり退職した。
ひとりで和夫を育てながら、上手く別荘ブームにも乗り大金も手にしていたが、医学部を目指す和夫が高3の時、仕事にしていたヤマメ釣りの沢で足を滑らせ頭に大きな損傷を負い右半身が不自由になった。
早すぎる母の死から、頼りない人の命を相手にする仕事に興味を持った(文中のまま)和夫は、父の不慮の事故のため(文中=人の命の頼りなさのため)夢は崩れた。
松吉に後遺症は残り、医師志望の和夫は、自宅から通える医学部が近隣にはなかったので、進学をあきらめ、看護士になるため隣市の看護学校に通った。
和夫は地元の病院に就職し何年か過ぎていた、テニスの合宿で骨折し入院した東京の短大2年生俊子と知り会い、彼女が卒業した秋に結婚した。(俊子の20歳そこそこの結婚は、当時でも早い方だろう) 1年生の時にすでに俊子は、左腕の動脈周囲に悪性腫瘍が出来て手術していた。ひとり息子の正史が4歳になった秋、俊子の腫瘍は肺に転移していて、東京での化学療法も効果なく和夫の勤める病院に転院し20日ほどで亡くなった。
作者は、恋の描写は苦手なのだろうか、ここでも大して書かれていない。
それよりも、死に向かう日々の中で俊子が語ったことの要約や、和夫の心情(妻が死んだというより死の予感に裏打ちされた短い人生を、それなりにしっかり生きた共同生活者が去ってしまったのだと和夫は思った。だから、時が経つにつれて悲しさが増した)と書かれてはいるが。
あとがきで作者は「あるがままを受け入れ、無理をしない生活、簡素で平凡な暮らし、それは足が大地に根付いている地方の生活」と書いている。
外面だけでなく、内面までそのようにありたいと願う作者にとって、書くという行為は、内面の浮き上がろうとする足を大地につけさせるための自己検証の作業だったとも書いている。
小説の登場人物で、小細胞癌で死にゆく宣教師マイクの存在は、大きい。同室に入院した松吉の人物像も浮き上がらせ、物語を読み進ませた。
水車を作る話は、松吉の最後の大仕事であり皆で作り上げ、それを見届け悦子は去った。
枯葉が積もる頃には支柱も芯棒も摩滅が進み気味の悪い音を立てだした。松吉の最期が近づいていた。
12月半ばの早朝、霜の下りた芝生の上での松吉の死と共に羽板にまとわりついた氷の重みで芯棒が壊れた水車の最期。
そこから舞い上がるダイヤモンドダスト。
水分が微粒子に昇華され立ち上がりキラキラと消えていった命。
生きて死んで命をつなぐ。死を受け入れながら「生」を生きる。
与えられた「生」を気負うことなく全うする。
無常、諦観、、、思いつく言葉は、儚い。
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文庫の付録には、同じく医師で作家の加賀乙彦と対談をしているのであるが作者は現役の医師。
真面目を絵にかいたような経歴と、多忙な日常診療の中で、それでも書くことをやめないで地道に少しづつ積み重ねた姿勢は(今でも現役の勤務医とのこと)ほとんど私(49年生まれ)と同じような時代を生きてきた(51年生まれ)ので、親近感もある。
私は、小説も映画も冒頭がとても大事だと思っている。読んでもらえるか観てもらえるか、作り手側の気合が伝わるからである。
小説の書き出しは、「ダイヤモンドダスト」でいうならたった4行の描写に、自分の感性から表出される最高の語句の組み合わせを不特定多数の読者に公開するところから始まる。
描かれた自然描写が、読者によって、スーッと頭の中で絵となってイメージされた時、その物語への誘いは成功である。
手馴れてしまった小説家の書き出しは、大した感動を呼ばない。瑞々しさが光るのは、芥川賞受賞作ならではと思う。
作風は、前月の「一月物語」と比べると全く対極である。
人の好みは色々なので、どちらがいいというものではないが、私は南木氏の「ダイヤモンドダスト」の方が心に沁みるし、余韻も残る。
ただ人間関係が、淡々と描かれ過ぎている感もする。
主人公の和夫と幼馴染の燐家の悦子の関係も、悦子が2代続いている男やもめの和夫一家の手助けを進んでしてくれるのは和夫にとって有難いし、息子の保育園児の正史も短期間で懐いた様だが、ふたりの関係は進展しないまま悦子はカリフォルニアに戻った。恋愛がテーマの小説ではないからだろうか。
10歳で母親を亡くした和夫は、喜怒哀楽を出すことを抑えて生きてきた。医者を目指していた高3の夏、父親の松吉が頭の骨が折れ血腫が出来、右半身が不自由になった。医学部進学をあきらめ隣市の看護学校へ進み看護師になった。
自分の力ではどうにもならないことを18歳までに何度も経験し、結婚した妻にも先立たれた和夫は、達観というより諦観が強い。人は誰もが早いか遅いかは別にして、死に至る。現実を受け入れ、残されたものは生きていくしかない。
運転手時代のアイディアマンの松吉の話は、面白い。
大好きな仕事だったからだろう。マイク・チャンドラーの設定が無かったら、ふたりの友情の話も水車を作る話もなかったと思う。
院長の香坂も淡々としている。仕事はできるが少し冷たい。悦子がいなくなった後、正史の送迎と松吉の食事のため、和夫が夜勤を外してもらったが「看護婦の就職希望者は多いんだけどね」と婦長に抑揚のない声で言っているとの描写があった。
12月10日の早朝、松吉は霜の降りた芝生の上で倒れ伏していた。正史が発見し既に脈はなかった。