ウォン・カーウァイの香港映画③「恋する惑星」(1994年)
2023年8月 石野夏実
原題は「重慶森林」で英題は「Chungking Express」、香港の繁華街の九龍、尖沙咀(チムサーチョイ)にある雑居ビル「重慶大厦(チョンキンマンション)」を舞台にしている。
90年年末に「欲望の翼」が公開され、時代物の「楽園の瑕」の制作が始まったが、遅々として進まず中断していた。
その間にこの「恋する惑星」を即興的に撮影し、駆け足で作り終え、公開も本作が先になったとのことである。
この映画は日本でも大ヒットしたが、アメリカのクエンティン・タランティーノ監督に絶賛され、欧米でも一大旋風を巻き起こしたといわれている。
ウォン・カーウァイ監督、金城武(前半の主人公)、フェイ・ウォン(歌手であるが今回は後半の主役)の名を有名にした作品である。
フェイ・ウォン(1969~)の相手役トニー・レオンはすでに新進スターであった。
舞台となった重慶大厦や中環(セントラル)のエスカレーター周辺は、日本人の観光客の「聖地巡礼」として流行したそうである。
フェイが歌う主題歌「夢中人」は大ヒットし、私もお気に入りであるが、まるで天使のような澄んだ声でフェイが軽やかに歌うと一緒に踊りたくなるような曲調である。
ストーリーは「ミッドナイトエクスプレス」という軽食のスタンド売店を媒介に前半後半の2部に分かれているが、続きとして第3部があり、翌年〈95年)公開の「天使の涙」がそれに該当するそうだ。
「恋する惑星」に話を戻すと、このポップな(=軽くて弾けてて深刻さは皆無というニュアンス)映画の前半は、警察官番号223号の刑事モウ=金城武(1973~)が1994年のエイプリルフールの日に5年間付き合った彼女にふられた。モウは1か月後の自分の誕生日(5月1日)が賞味期限のパイナップルの缶詰(彼女の好物)を買い続け、それでも期限までに彼女が戻らなければ諦めることにした。
孤独な若者モウは、彼女から連絡の入らない当日未明、パイナップル缶30缶をやけ食いし食べ過ぎて腹ごなしにバーに飲みに行き、そして吐いた。
そのあと彼は、最初に会った女性と恋をすることを決心した。口説いた女性は金髪のかつらを被ったトレンチコート姿のドラッグディーラー=ブリジット・リン(1954~)だった。
裏切者たちを探し回り拳銃で殺し、彼女は疲れ切っていた。ホテルのベッドで爆睡している彼女のそばで、夜明けまで一緒に過ごしたモウは、彼女の白いヒールを自分が締めていたネクタイで綺麗に拭いて部屋を去った。
誰に電話をかけても相手にされなかったモウであるが、悲しい時の慣習のジョギングが終わりポケベルを捨てた。
歩き出したらそのポケベルが鳴った。記念すべき25歳の誕生瞬間の6時に、その金髪女性から「誕生日おめでとう」のメッセージが届いた。
モウにとって最高のバースデイプレゼントになった。
一方、金髪女性は白人の愛人を射殺し、かつらを脱ぎ捨て雑踏の中に消えていく。
この場面からあとは、ジョギング帰りのモウが「ミッドナイトエクスプレス」の店先で新しい店員のフェイとすれ違い後半に入っていく。
まるでバトンタッチのように。
《その時、二人の距離は0.1ミリ。しかし、その6時間後、彼女は別の男に恋をした》
その相手、663号の登場である。※633号と書く人も多いが、肩の記章は663号である。
「ミッドナイトエクスプレス」の常連客に警官番号663号のトニー・レオンが扮している。この店の新しい女店員はフェイ(フェイ・ウォン)だ。
パパス&ママスの歌う「夢のカリフォルニア」を大音量で流しながら、ご機嫌で体を揺らし店に立つフェイは663号に恋をした。
彼の別れた彼女から彼に渡してと預かった部屋の合鍵で、勝手に部屋に入り掃除や模様替えをし始めた。どんどんエスカレートするフェイ。何度も通ううちに、とうとう彼663号に見つかった。
663号はCA(キャビンアテンダント)の彼女にふられた当初はショックが長引いていたが、フェイと出会い、可愛くてストレートな彼女に惹かれ始めた。CAと偶然出くわしても、もう過去の人だった。
1年後、取り壊された「ミッドナイトエクスプレス」の前に立ったCA姿のフェイ。かっての店は警官を辞めた663号が引き継いで改装中だった。
再会したふたりの恋が始まる予感でジ・エンド。
私は単純な恋愛映画のハッピーエンドも時には大好きで、悲恋は心が痛むので、本当は嫌いなのだった。
「恋する惑星」後半フェイの恋は、音楽といい映像といい無条件に癒される。
日本人の体質では絶対に撮ることは不可能な、ウォン・カーウァイの香港発ポップでスタイリッシュ(この映画を語る時の枕詞として定着している)な恋愛映画、ここにあり!であった。
DVDの特典インタビューで後半撮影担当のクリストファー・ドイル(オーストラリア出身)とウォン監督の個別のインタビューがあった。
監督の盟友ドイルは底抜けに明るくてフランクで、私はすっかりファンになってしまった。
663号の住むマンションの撮影はドイルの実際のマンションを使ったそうで、その間はホテル住まいをしたとのことである。ロケ地を訪れながら懐かしみ、フレンドリーに店員にも話しかけるドイルは、全く気さくで香港人のように流暢に広東語を話す人だった。
監督のインタビューで印象的なのは「この映画には速度遊びを取り入れた。(中略)この映画はまるで報道番組のように多くが申請なしのゲリラ撮影だった。時間的な余裕がほとんどなかったからだ。一番印象深かったのは、既成概念が解き放たれたということだ。私だけでなくクルー全員にとってだ。私たちはこうした撮影も可能だと知った。撮影過程が一番面白い。今見て思い出すのは、ストーリーよりもあの頃の撮影過程の方だ。いい経験をした」
次回作から生かされていると思う。
この映画に対し「香港返還」など複雑な解釈もあるらしいが、楽しい恋愛映画でいいのではないだろうか。
不思議な題名「恋する惑星」のほうが原題「重慶森林」より100倍良いと思っていたが、監督が「楽園の瑕」の撮影途中、香港の重慶大厦と九龍に郷愁し拘っていたかららしい。