デイミアン・チャゼル監督2作品「セッション」と「ファースト・マン」

デイミアン・チャゼル監督「セッション」(原題Whiplash)2014年作品

 数あるミュージカル映画の中で、私の一番のお気に入りとなった「ラ・ラ・ランド」(2016年)の監督デイミアン・チャゼル(1985年生まれ)の初期の長編映画「セッション」(2014年)をプライムで観た。

この映画は、邦題どおりジャンルでいえば音楽ドラマであり、アカデミー賞の録音賞を受賞しているということなので、迫力ある演奏が視聴できると期待した。
チャゼルのこの作品は、「ラ・ラ・ランド」の2年前に、助演男優賞、編集賞も合わせ3部門を受賞していたので、機会があれば一度観てみたいと思っていたが、先日プライムのお薦めに並んでいたのを偶然みつけ、観ることができた。

※チャゼルの経歴では高校時代にジャズドラムに傾倒し、名門バンドで演奏するほどの実力もあったようだ。ただし鬼コーチのスパルタ指導がトラウマになりその道を断念し、ハーバード大学で映画を専攻したとのこと。止めてからもバンド時代の悪夢にうなされ、それを克服するためにこの映画を制作したそうであるが、克服には至らなかったと後日談。
 
※※学生時代の09年に初の映画でゴッサム賞(インディペンデント映画対象)にノミネートされ、その後「Whiplash」の脚本を執筆。この脚本の一部に基づき短編の「Whiplash」を制作。これがサンダンス映画祭(世界最大のインディペンデント映画祭)短編映画審査賞を授賞し3億円の制作費を手にした。それを元手に長編のこの「Whiplash」を自らの交通事故にも遭遇しながら19日間で撮影したそうである。この長編映画は14年のサンダンス映画祭のグランプリと観客賞を受賞。アカデミー賞も同年に3部門受賞。

「セッション」というくらいだからJAZZ関連であろうし、「ジャムセッション」という意味なら、誰(たち)が?どんな楽器で、どんな風に?と思っていたのであるが、楽器で自由に即興掛け合い演奏をする場面は無かった。
原題は「Whiplash」(ウィップラッシュ)=「ムチひも」の意味で「ムチ打ち症」の意味まである単語なのである。「ムチ打ち症」は、首に大きな負荷がかかるドラマーの職業病でもあるといわれているが、この単語は、またJAZZの曲名なのでもあった。
舞台となる学生JAZZビッグバンドの練習曲として度々登場し、各パートの出番がうまく組み合わさってできている曲だと感じた。

主人公は19歳のジャズドラム専攻の名門音楽大学に通うアンドリュー・ニーマンであるが、最初は童顔でスレてなくて、徐々に傲慢になっても行く。そのうち恋まで捨てて、この道一筋だったのに挫折もするし、表情も巧みに変化していく役どころを、マイルズ・テラーはドラム演奏だけでなく演技も十分にこなしていた。
人格否定や罵倒、物を投げる、頬を叩く等の暴力行為、それを止められもせずやりたい放題のパワハラ暴君鬼指導者フレッチャーにJ・K・シモンズ(この映画でアカデミー助演男優賞を受賞)が成りきっている。
彼はこのニーマンを学内で見つけ出し、自分で選んだ校内選抜者によるビッグバンドのドラム正奏者候補としてスカウトしたが、ニーマンに待っていたのは様々な地獄だった。。。
 観終わると、なぜ邦題が「セッション」?と思いたくなるが、深読みすれば、最後の9分を超える「キャラバン」の演奏での終わりそうで終わらない神がかり早打ちニーマンと、鬼指導者のフィッチャーの殴り合いの様な狂気での復讐の応酬。この駆け引きが、まさしく「セッション」なのだろうと思った。

余談であるが、私はビッグバンドよりもトリオやカルテットの方が好きである。ドラマーならアートブレーキー。高校時代に同級生の男子が大学生の兄貴からの受け売りではあったが、昼休みの放送室からDJになりきって流したJAZZのスタンダードナンバーの数々。兄貴がいていいなあと思ったものだ。
それと深夜のラジオから聴こえるJAZZ評論家の大橋巨泉のレコード紹介とJAZZ談義。そのふたつがJAZZへの垣根を低くした。
一時期経営していたライブハウスはロックやフォークがメインだったけれど、母校のジャズ研にライブの場を提供ということで毎週金曜日の夜、私は本業で不在であったが、部員任せで開放していた。家賃さえ何とかなれば、スタッフは娘から友人知人まで、ほとんどボランティアに支えられていた。
演奏も出来ないし歌も歌わないので、専ら聴くだけであったが、JAZZに関しては良い思い出だけしか残っていない。

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「ファースト・マン」(2018年アメリカ公開 19年日本公開)
前日に、デイミアン・チャゼル監督のJAZZドラマ映画「セッション」を観て、やはり彼の作品は探してでも観るべき映画だと思い、プライムを検索した。
すると先頭に宇宙服のヘルメットを装着したライアン・ゴズリングのポスター「ファースト・マン」が現れた。
 チャゼル監督はライアン・ゴズリングがお気に入りなのだろう。
「ラ・ラ・ランド」に続いて、この映画もゴスリングが主役である。
これで遅まきながらチャゼル作品の3本「セッション」「ラ・ラ・ランド」「ファースト・マン」を観たことになる。

チャゼル監督は暴力を好まないと思った。エロ、グロ、ナンセンスも描かない。緻密でありながら多角的な眼を持った才能豊かな監督だと思う。

さて映画であるが、アナログ機器に囲まれた狭い操縦席での臨場感は、1960年代の宇宙飛行を追体験できるほどの出来栄で私たちをあの時代へと誘った。
ロケットや月面での映像も継ぎ接ぎ感がなく、どの場面も見応えがあって全く違和感がなかった。編集もとてもうまいと思う。
 
※公開映画ではないがNetflixで「ジ・エディ」というドラマが配信されている。まだ観ていないが、パリのジャズクラブの経営者が主人公で、全8話のドラマのうち最初の2話をチャゼルが監督しているとのこと。また映画での次回作は、コロナ渦で公開が延期されているブラピ主演の「バビロン」であるが、今年の年末に限定公開され、翌年から日本でも一般公開される予定らしい。
 
「セッション」と「ラ・ラ・ランド」は音楽系映画であるが、「ファースト・マン」は全くの別ジャンルで、アポロ11号で人類初の月面着陸を成し遂げた人物、ニール・アームストロングの伝記を映画化したものである。
脚色されているので、実際のアームストロングと映画の主人公のアームストロングの人となりや性格もずいぶん違うらしい。

この映画は、偉業だとか英雄だとか、ありきたりの言葉は使わない。
主人公は、幼い愛娘(2歳から3歳くらいか)を脳腫瘍で失った喪失感を内包した父親であり、未知の道を歩んでいくプロフェッショナルではあるが死と隣り合わせの宇宙飛行士という職業を選んだ人でもある。

その両面から人間アームストロングを映し出すわけであるが、映画のアームストロングは、人と話すより孤独を愛する寡黙な人物として際立つ場面が多い。
妻にさえ心情を吐露しないし、自分の多くを語らない。
妻の立場なら、時には怒りを抑えることもできない夫だ。特に、月面探索のミッションを遂行するアポロ11号に乗り込むため迎えの車を待っているその晩、家族とは二度と会えないかもしれないのに、夫は息子たちに大切な話もしないで荷造りをして時間を過ごしている。
宇宙への出発の前に、息子たちときちんと話をして欲しい妻の怒りは爆発した。「ふたりに話をして」::「何を言えばいいんだ?」
「何を言いたい?行くのはあなたよ。」::「ふたりとも眠っている」
「眠ってないと知っているくせに。なぜ話さない」

夫はやっとふたりの息子と向き合った。

弟「月についたら何て言うの?」::「着陸できるかどうかわからない」
兄「戻ってこられる?」::「ミッションを信頼している。リスクはある。戻ってくるつ  もりでいる」
兄「でも戻れないかも」:::沈黙ののち:「そうだ」
妻は息子たちに「もう寝なさい」と促す。
 
全編を通して、アームストロングは感情的に動かない。穏やかだが、寡黙で思慮深く取り乱さない。彼は、空軍系パイロットからNASAの宇宙飛行士に応募し選抜された人物だ。嘘やごまかしは通用しない職業だ。
だからこそ、息子たちにも希望や憶測は伝えなかった。
 
この映画は、過酷な訓練や事故で実際に亡くなっていった何人もの同僚たち、宇宙飛行士の実話も混ぜながら、1960年代(1961~69年)のNASAのミッションであるジェミニ計画とアポロ計画の実践者としてジェミニ8号、アポロ11号の船長であった記録でもある。
宇宙飛行士という死と隣り合わせの危険な職業に就いている人物と家族、また同じ境遇にある同僚やその家族との交流から窺える緊張感のある生活。

世界的な宇宙開発の事実と、アームストロング個人の家族の話を両面から伝えることに成功した。
映画のオリジナルかどうかわからないが、最初の頃の場面で、アームストロングが100パーセント父親らしく、幼くして脳腫瘍になった愛娘カレンを抱き、あやしながらお月さまの話をする場面がある。
「お月様を見ると、お月様も私を見る。古いナラの木の葉っぱの向こうから私を照らしてくれる光が愛する人を照らしますように。。。」

亡くなったカレンの腕に巻かれていたネーム入りの小さなブレスレット。棺に入れず、手元に置いておいた娘の形見。
アームストロングは、その大切なブレスレットを月へ降り立った時、クレーターの中へ静かに放った。
ブレスレットは奥深く落ちていった。
月に抱かれてカレンは永遠の眠りについた。

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