イタリア映画「81/2」(1963年公開)

第9回フェデリコ・フェリーニ監督1963年作品「81/2」(2022.2.20発表)
旧作映画担当の順番が回ってきて、さて、誰の何の作品にしようかと思ったところ、頭に浮かんだのはフェリーニの「81/2」であった。
前回のF氏担当「オルフェ」に刺激を受け、ジャン・コクトーに興味を持ち書簡集を手に入れたり詩集や文庫を机に並べたり、少々ハマってしまったその流れで、今回、一度はまとめて勉強したいと思っていたフェデリコ・フェリーニ監督の作品を選ぶことにした。
学生時代は、パゾリーニの映画のほうを数多く観た記憶が蘇り、フェリーニの当番が無事終了したら、今年前半は、パゾリーニを追いかけてみたい。
戦後すぐからのイタリア映画といえば、ヴィスコンティも大きな存在であるが、貴族趣味が無い私は、フェリーニやパゾリーニの作風のほうが好みである。
「道」でもなく「甘い生活」でも「サテリコン」でもなく、フェリーニ映画をひとつだけ選ぶならば、やはり「81/2」であると思った。
何がどう良かったのか、過去の曖昧な記憶に頼らず、このシュールでモダンで会話の中には真実が散りばめられている、モノクロ映画の最高の映像美作品のひとつであると思っていたこの映画を、もう一度観なおす作業から始めることにした。
勉強といっても大したことが出来るわけでもなく、インタビュー本(「フェリーニ、映画を語る」竹山博英訳)や雑誌(キネマ旬報2020年8月上旬号=生誕100年”今こそ”のフェリーニ!)を読んだりDVDを手に入れたり、いつものように自己流の手探りから始まった。
あれほど大事にしていたはずの、50年前のみゆき座?で観た「サテリコン」の映画パンフレットさえもすでに手元にはなかった。「81/2」のパンフレットは買っていなかったので、これを機にアマゾンの中古を注文したが、年末年始もあり、1月3日時点、手元に届いていない。
今回、参考のために初めて観た作品は初期のもので、1953年公開の「青春群像」であった。
「道」(1954年)と「甘い生活」(1959年)「81/2」(1963年)と「サテリコン」(1969年)の4本は、映画館やビデオですでに観ていたが、「サテリコン」以後の作品はひとつも観ていない。おそらく興味が、伊仏の欧州映画から、「俺たちに明日はない」以降のアメリカン・ニューシネマに移っていたからであろう。

「81/2」のスタイルが「青春群像」や「道」とは違い、「甘い生活」の延長ではあるものの、夢や幻想も含め、フェリーニ自身の内面の真摯な告白映画であるならば、評論家や他者の言葉をそのままの受け売りではなく、自分の感性が受け止めた言葉で語りたいと思ってはいるものの、どこまでできるであろうか。自身への課題である。
この映画は、俳優に役も振れず、撮影の開始もされず、時間とセットの制作費だけが無駄に費やされ、スランプに陥っている監督の現実逃避の回想や妄想、悪夢と現実との混濁を映像化。
愛人がいても心から愛しているわけでもなく、嘘のためにまた嘘を重ねる不誠実な主人公のグイドは、撮影現場の温泉場に妻を呼び寄せるが、関係の修復は出来ず、却って妻に「限界」といわれる。
時々現れる眼鏡をかけた学者風のアドバイザー?は、的確に辛辣な助言を述べるが、最後の助言は、反面教師としてグイドに再生をもたらすきっかけとなった(と私は思った)。
グイドが到達した人生肯定の答えは「女性たちよ許してくれ。やっとわかった。君たちを受け入れ愛するのは自然なことだ。すべてが善良で有意義で真実だ。説明したいができない。すべてが元に戻り全てが混乱する。この混乱こそが私なのだ。夢ではなく現実。もう真実を言うのは怖くない。何を求めているかも言える。生きている気がする。恥を感じずに君の目を見られる。人生はお祭りだ。一緒に過ごそう。言えるのはこれだけだ。理解するために今の僕を受け入れてほしい」
ルイザはやっと心を開き(一方が心を開けばもう一方も心を開くと思う)「確信は持てないけどやってみるわ。だから力を貸して」
(ふたりはやっと向き合うことができた)
最後のシーンは、まさに登場人物全員集合のお祭りだ。笛の音と共に楽団が現れ、最後に男の子。
グイドは自信が戻り、監督としてメガホンを取り指示を出す。全員が手をつなぎ踊るその輪の中にルイザの手を取りグイドも入る。
夜になり人がいなくなった会場。楽団の退場。少年だけが残り、笛を吹きながら暗転エンドロール。記者会見場で机の下に隠れ、ピストル自殺で倒れたはずのグイドは幻想だったということになる。

フェリーニ「81/2」の補遺          
 ところで、黒縁メガネの顔の長い学者風のおじさんは、一体誰なんでしょう。
マエストロ?アドバイザー?グイドのマイナス思考時の「陰」の分身?
カメラテストの会場(劇場)で、ポツンとグイドの後方に座り、スタンダールの格言なんぞを口に出す。
グイドが「うるさい!口出しするな!」と言い渡せばすむものを。突然、絞首刑に。おじさんは、このあとも出てきますので、この絞首刑場面はグイドの妄想か。

一方、シルクハットの愛想の良いおじさんは、道化師で明るく社交的な「陽」の分身?

考えすぎたら、フェリーニの迷宮に迷い込んでしまう。
最初に自分が感じたままで、いいのではないでしょうか。絵画だって文学だって、解釈は受け手に委ねられている。
終わりよければ、すべてよし。

フェリーニは1920年に生まれ1993年に亡くなった。
少なくとも彼が生きていた時代のイタリア人の幼少期少年期は、カトリックの中で成長する。
生まれた時から宗教と共に生活しているわけだから、フェリーニの映画に、神父やシスターがよく登場するのは当然のことなのであろう。
離婚や中絶が認められるようになったのは前者1974年、後者1980年とのことである。

E氏の感想にあるように、私も日本の監督に例えれば黒澤明(フェリーニより10歳年上)だと思った。
フェリーニと黒澤のふたりが、長年親しい間柄であることは色々なところに書かれている。
フェリーニは、さすがにイタリア野郎なので女性に目がない。
片や、黒澤は女性にはあまり興味がなさそうである。
フェリーニにはマストロヤンニがいて、黒澤には三船敏郎がいて、映画における分身のような存在だったのだろう。
 


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