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“ドイツ・ロマン派のポエジー”って?

 今日、さる文藝評論家氏と話していて何かの拍子に“ドイツ・ロマン派のポエジー”という言葉を使ったのだが、自分の言葉ながら「それっていったい何なのかしらん?」とひとしきり首をひねってしまった。

 もちろん「ドイツ・ロマン派の美学的定義とは」なんていう話に入り込む気は元より私にはなくて、自分が「ああ、これぞドイツ・ロマン派!」と感じる表現の質や人間的属性とは何なのだろう……ということでしかないのだが、ざっと挙げてみるなら――

夢追い人。屈折して見えたり毒を吐いたりもするが、根はお人好しできまじめで、可憐なほど純情。聡明だが自己耽溺的で思い込みが激しく、人付き合いの上ではちょっと困った人。やたら小難しいことや途方もないことを考えたり言ったりやったりするがどうにもぶきっちょで失敗が多く、何かと抜け目がありすぎる。強がったり威張ったりするがいざとなると小心で人間的弱さを隠せない。したたかさ、図太さはゼロ。洗練やおしゃれさを狙うけどどう見ても何だか野暮くさく、やたらと自意識過剰な割りに自分のとんでもないダサさに常に気付かない。はっきり言うと、かなりの間抜け。しかし、どうしようもなく、愛すべき人――

 要は、その種の永遠に世慣れない人間が俗塵にまみれて味わう悲喜劇が醸し出す《もののあはれ》――そんなところだろうか。

 作曲家で言えばもちろんシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンが、私のイメージするそんな《ドイツ・ロマン派》の代表格ということになる。そして、この種の音楽を演奏する際の難しさは、昨今のアスリート型音楽エリートの割り切れた感性には全く理解の外であろう、上記のような困った人の《人間味》をいかに深く、細やかに把握できるかどうかにかかっている――というところにある。

 簡単に言えば、立派すぎてはダメだし、巧妙すぎたり洗練されすぎていてはさらにダメ。強い奴や賢い奴やしたたかな奴がその人間的地金を見せてしまったら、全てが台無し。立派さを誇示しない真の立派さ、巧いと思わせないほんものの巧さ、洗練されていると感じさせないほんものの洗練、そして何より、人間性への深い洞察と愛情からのみ生まれる《叡智》が求められる。これもまた、昨今のエリート演奏家たちがどこでも決して学んだことがなく、永遠に学ぶこともない資質だろう。その演奏家自身が上記のような「困ったちゃん」――つまり天才であるなら話は別だけど。

 さて、くだくだと駄言を連ねてきたけれど、私の言わんとする“ドイツ・ロマン派のポエジー”なるものは、実はこのレコードが何よりも端的に、また精確に体現してくれているのでこれを一聴すればそれで済む話なのだ。ロッテ・レーマン歌唱、ブルーノ・ワルターのピアノ伴奏によるシューマン「女の愛と生涯」と「詩人の恋」、1941年の録音。私は自他ともに認める「歌もの音痴」だが、このレコードだけは折に触れて何度も聴き返し、そのつど限りない慰謝と癒しに包まれる、かけがえのない一枚。

 これ以上の解説は不要で、あとは聴いていただくだけ。蛇足として付け加えておくなら大指揮者ワルターによるピアノ伴奏の驚くべき名人芸で、これこそ「巧いと思わせない巧さ、洗練されていると感じさせない洗練、人間性への深い洞察と愛情からのみ生まれる《叡智》」の、最良の見本だろう。たとえば想像上のお遊びとして、ここ数年の歴代ショパン・コンクール入賞者お歴々に、この「女の愛と生涯」の出だしをワルターが弾くのとそっくり同じに弾いてみて――と言ったら、さてどうなるでしょうね?

 恐らく、一万回弾いてもこうは弾けず、彼ら彼女らをノイローゼにしてしまうこと請け合いだろう。まあ、そういうことなのです。

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