馬と鹿
こんな発言をSNS上で見た。「自己責任論は、権力に従えという意味だ。」投稿者はこの驚くべき結論をいくつかの前提を経て合理的に引き出している。むろん、ソフィストの昔から、論理においては馬も鹿になれるのだから、自己責任論が権力服従を意味することくらい、論理を用いれば何でもなくできる。論理は現実の規制など受けない。
論理には自然法則のような整合性・一貫性はない。白を黒と言うこともでき、馬を鹿と言うこともできる。どんなアクロバットも可能だ。論理にのみ従うことは当然狂気であり、狂人は非常に論理的である。
大馬鹿者を大馬鹿者と言うのは良識の働きである。そこに論理は必要ない。馬は鹿であると言い立て、大馬鹿者を弁護するという、良識に反する言説はむろん論理による正当化を必要とする。正しくあるために論理を必要とするなら、それはすでに正しくない。論理はそもそも嘘であり、良識の賢明な働きだけが、論理の適正な運用を保証するのだから。
シリアから救出された愚か者をめぐる、ここ数日のさまざまな報道を見る限り、どうやら大馬鹿者を大馬鹿者と呼ぶのは怪しからぬことであり、善良な市民はそのようなことを口にするべきではなく、多くの人に多大な迷惑をかけた大馬鹿者に対して我々は一切批判してはならない、というような奇怪な風潮圧力を主要マスコミが結託して生み出そうとしているようである。彼らの底意がどこにあるのかは知らないが、「自己責任論の危険性」などという、勝手に拵え上げた仮想敵のありもしない危険性を言い立てることで、良識の当たり前な働きを脅迫し、抑圧しようとするのは現代の異様な言論風景を特徴付ける傾向である。
良識は常に論理に先立ってある。いかなる法制度も、人権の概念も、良識が利便のために生み出した合意事項にすぎない。その順序が逆転すれば狂気である。物事の順序、物事の区別、わきまえがなくなること、それが狂気だからだ。リベラルの仮面をかぶった現代の言論は、良識が法に従い、思想に従い、論理に従うことを要求する。その行き着く先は全体主義者やマルクス主義者の理想社会であろう。
人間の自由を保証するものは法制度や人権といった恣意的な人工観念ではない。良識という天与の叡智、その賢明なはたらきだけだ。良識は愚者の楽園を望みはしない。その楽園の王者はイデオロギーという神の負託を受けた狂人であり、彼の論理はあらゆる良識の抗議を封殺する。正気で賢明な者たちの楽園においては、良識のみが統治する。だが、支配はしない。支配を欲するのは良識の不肖の子であるイデオロギーだけだ。つまり、良識の統治を離れ、論理のみを権威の源泉として選んだ思想である。狂人は愚かであり、愚か者は支配しようとする。支配されるものは愚か者よりもさらに愚かでなくてはならないから、「楽園」の支配者が良識を全力で封殺にかかるのは当然のことだ。歴史が教える通り、愚か者が白痴の群れを支配する楽園は、むろん、現実の復讐を受けてすぐに滅びる。それは種が自らを淘汰しようとする衝動ででもあるかのようだ。
私の周囲には良識ある賢明な友人・知人が多くいるし、政府機関や企業にも、また芸術・科学やスポーツの分野にもそうした人は大勢いる。支配を望み、良識を恐れる狂人や愚か者たちが巣食っているのは今のところマスコミ・言論界だけのようだから、日本がすぐに愚者の楽園と化す気遣いはなさそうだ。が、すでに愚者の楽園と化した言論界においては、正気な人間が良識を保つことがもはや英雄的な努力を要する難事となっている。今のところ気遣いはなくても、十年先、二十年先には、大馬鹿者を大馬鹿者であると「思った」だけで毒を飲んで自決しなくてはならない社会が現出しないともかぎらない。冗談を言っているのではない。これは私の良識、すなわち精神の本能が告げる警告だ。そうなっていない今のうちに言っておくことにしよう。自己責任もへちまもあるものか。大馬鹿者は、単に大馬鹿者である。