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上越note#9「濱谷浩」

写真家「濱谷浩(はまやひろし)」という名前だけは小さい頃から知っていた。たぶん、父親から聞いたことがあるんだと思う。数年前に、「上越はつらつ元気塾」の講演でも戦後の高田文化を担った一人として名前が出ていたので概略は知っている。いつかじっくり写真集を見てみようと思っていたが、夏の暑さで家にお籠もりしているときにいいチャンスと思って高田図書館から「生誕100年 写真家・濱谷浩」を借りてきた。

全5章で構成されている。
第1章 モダン東京・・・(戦前の東京、オシャレでびっくりした。)
第2章 雪国・・・・・・(高田に居を構えていた時の写真、桑取の「馬」も。)
第3章 裏日本・・・・・(「山の湯治場」の混浴写真は別の意味で驚く。)
第4章 戦後日本・・・・(「玉の井」の写真は、興味深い)
第5章 學藝諸家・・・・(作家たちの内面を映し出す力はすごい。)

高田時代の濱谷浩を徳永健一氏(新潟県立近代美術館館長)が「地域に文化の芽をまく」という文にまとめており、たいへん興味深い。一部引用して紹介する。

「1945年(昭和20年)7月、濱谷は空襲の続く東京を逃れ高田に疎開、市川(信次)の紹介で高田市寺町の善導寺の寺の2階10畳に住いした。「僕はフィルムを真っ先に疎開させてね・・・フィルムは命だから」と疎開の模様を語っている。階下には市川と仲の良い芥川賞作家小田嶽夫が3部屋を間借りしていた。この宿から住職の内山泰信、代々御典医の家系である藤林道三、陶芸家の齋藤三郎と地元の文化人との交友が深まっていく。」


「独身時代の濱谷はよく町の中を散歩していた。銀座仕込みの長身の美男子。とてもオーラがあり、高田の中心である本町通を、洋服にカメラを掲げてのスタイルが決まっていた。と飴菓子で名高い大杉屋の宮越光昭は語る」

10年ほど前に「上越はつら元気塾」で宮越光昭氏と池田稔氏を講師に戦後の高田文芸の時代の話をしてもらったことがある。そのときに大杉屋の宮越氏、上越美術協会の会長だった池田氏から直接、この時代の濱谷、小田嶽夫、齋藤三郎、堀口大学などの交流の話を聞く機会があった。宮越氏や池田氏はその当時、まだ二十歳前後の青年であり、すでに名だたる文芸家、芸術家との交流に心躍らせていたと想像する。貴重な写真などを見せてもらったことがある。また、富山に疎開していた棟方志功も時折高田にやってきて交流していたという。

濱谷は昭和20年から昭和27年まで高田に住んでいた。東京での仕事が多く、高田に住むことの不便さから居を大磯に移した。その後の活躍は日本にとどまらず、世界的に有名な写真家として知られるようになる。第5章の學藝諸家には、濱谷が写した有名作家の肖像が掲載されている。濱谷を知らなくても、これらの作家たちの写真は見たことがある人も多いだろう。本書で掲載されている學藝諸家は、渋沢敬三、鈴木大拙、新村出、堀口大学、小杉放庵、會津八一、小田嶽夫、高村光太郎、小林古径、棟方志功、大岡昇平、坂口安吾、折口信夫、伊藤整、内田百閒、永井荷風、佐藤春夫、谷崎潤一郎、井伏鱒二、川端康成、小林秀雄、幸田文、正宗白鳥、室生犀星、柳宗悦、坂口謹一郎、安岡章太郎、石川淳、大江健三郎、開高健。名だたる文芸家の内面を映し出すような写真は、やはり単なるポートレートとは異なるするどい視線を感ずる。

濱谷宏が高田にやってくることのきっかけも紹介されている。
「昭和12年7月、日中戦争となり、10月、私はオリエンタルを退社して、フリーランスの写真家として独立した。報道写真という分野が開発されだしたときだったが、やがて、それは国家宣伝という目的のために奉仕しなければならないことになる。そのころ私は銀座や浅草のはなやいだ盛り場で、ちいさい幸福や、ちいさい不幸を背負って暮らしている人々の風俗的な写真をとっていた。
 昭和14年の1月、ある雑誌の特派で、新潟県高田市にある陸軍のスキー部隊の演習を取材にいった。ここではじめて、私とは別の世界「雪国」を見た。土地の民俗学の学徒を尋ね、民俗学と写真と私が結びついた。」
「・・・以来10年間、私は雪深い谷間の「桑取谷」に通い、記録写真をとり続け、日本人の生活の古典を見ることになる。」
「敗戦の秋、居を高田に移して6年余、その間、人間の幸福について、写真について考えた」

出会った民俗学の学徒とは瞽女の研究で有名な市川信次氏である。市川信次氏の長男も盲学校に勤めながら瞽女の研究を引き継ぎ、「ふみ子の海」などの著作がある。瞽女の研究の痕跡は、現在瞽女ミュージアムで見ることができる。