飛行機の本#26 中島知久平伝(豊田穣)
「中島飛行機」は、第二次世界大戦中に活躍した陸軍の1式戦闘機「隼」、2式戦闘機「鐘馗」、4式戦闘機「疾風」などを製造した。また、零戦(三菱飛行機)も実は「中島飛行機」の栄エンジンを積んでいた。第二次世界大戦直前には世界最大の飛行機会社であった。戦後「中島飛行機」は解体され、群馬本社は富士重工(現SUBARU)、東京製作所がプリンス(現日産)となった。日本中にあった中島飛行機の会社や工場は、今でも全く違う分野の礎になっている。そんな「中島飛行機」を群馬県太田市に設立したのが中島知久平。日本の飛行機王と呼ばれた。
中島知久平は自分のことを隠す人だったという。本当は何を考えていたのか、よくわからない。この「中島知久平伝」でも多分に豊田穣氏の思い入れが入っているように思え、実像がはっきりと浮き上がってこない。しかし、それも仕方ないと思う。中島知久平にはたくさんの面があるのだ。
中島知久平の概略は以下のようになる。
明治17年(1884年)1月1日に生まれる。
馬賊になってロシアをやっつけるという夢を抱き、家出して上京する。
陸軍に入るため、2年間独学し中学校卒業資格をとる。
これからは海の防衛ラインだと海軍機関学校に入学する。
機関科将校の時にこれからは飛行機の時代だと考え、フランス出張を願い出る。
イギリスへの出張の時に一ヶ月行方不明になってフランスで独自調査をする。
あまりの熱心さに飛行機研究を認められ、アメリカやフランスで研究をする。
機体調査の出張なのに飛行士免許もとり日本最初の公認飛行士になる。
大艦巨砲主義の軍上層部に飛行機重視論を出し続ける。
認められないため、とうとう軍を出て民間飛行機会社を太田市につくる。
多くの融資先を獲得し飛行機会社を大きくし全国に工場を多く持つ。
海軍相手では制約が多すぎるため陸軍向けの飛行機を作り認められる。
国防を自分なりに考えた末に政治家になる。
株で儲けた金をもとに政治活動を行なったが、軍需産業で儲けた金と誤解される。
政友会総裁にまでなるが大国翼賛会のもとに日本のファッショ化に飲み込まれる。
対米戦とその結果を予想し、6発重爆撃機「冨嶽」プロジェクトを独自に進める。
終戦後の初の内閣で商工相になる。
A級戦犯で公職追放。2年後に解除。
昭和24年(1949年)10月29日、脳出血のため65歳で急死。
生涯独身。
大局を考えていて、細かなことにあまりとらわれない自由人だったように思える。
壮大なロマンを求めていながら緻密に実績を積んでいくリアリストでもあった。
それにしても夢を語りながら次々と飛行機産業を拡大化していくには相当な抵抗があったと思う。特に軍部や政府との駆け引きは大変だったと推測する。
この本の中にもしばしば出てくるのが海軍と陸軍の対立だ。それぞれが、同じような仕様の飛行機を別予算で発注する。同じ国であるのに一つにできない。海軍と陸軍では共通部品がないため、つまり互換性がないため、整備士の養成から飛行場の設置まで別立てで造らなければならない。ネジ一本から違うのだ。中島飛行機も陸軍機用工場と海軍機用工場を別に造らねばならなかった。官僚主義というかセクト主義なのだ。第二次世界大戦中にドイツのダイムラー社からDB601という世界最高水準のエンジンを海軍、陸軍それぞれがライセンス契約し、莫大な予算をつぎ込んだ。ドイツをして、なぜ日本軍として契約しないのか、日本には国が二つあるのかと問わしめた。縦割り行政の最たるものだ。知久平は、それらを統合して空軍にすべきと上奏する。政治家になったのも空軍を作るのには政治家にならなければならないと考えたためかもしれない。
この縦割り行政、他省庁との連携は今も大きな問題だ。他の国に比べてデジタル化が遅れていたのも縦割りでバラバラの仕様が阻害要因となっていた。菅総理大臣は、ここを打破しようとしている。ぜひ成し遂げてもらいたいもんだ。
中島知久平伝―日本の飛行機王の生涯
潮書房
豊田 穣 著 2014年