上越立ち止まりスポット20-②(資料編)直江津捕虜収容所
昭和24年8月19日から20日にかけて、直江津捕虜収容所事件で収監されていた八名のうちの四名が刑を執行された。今日は8月19日だ。
直江津捕虜収容所事件の八人に関する資料が「こんな日々があった-戦争の記録-」(上越よい映画を観る会・直江津空襲と平和を考える会共著、1995)にあった。横浜軍事法廷にて死刑判決を受けて処刑された。
まずは、早乙女勝元氏の講演「直江津捕虜収容所事件から何を学んでいくか」の講演録を引用する。
戦後、所長を含め九名が捕虜虐待の戦犯容疑として拉致され、所長は無期、兵士・看守は死刑の判決を受け、納得しないままに処刑されました。所長は、「全責任は私にある」と部下の無実を主張しましたが、「貝になった男」としてその後暗い一生をおくりました。(昭和54.9.1死亡)
八名の運命を裁いたB・C級国際軍事裁判は、セワイテス代表検事の問答無用に近い冷酷極まる告発と横浜裁判の見せしめ判決により八名に絞首刑という極刑を科しました。これは直江津捕虜収容所にいたチズルム大尉の一方的とおもえる証言がわざわいしているといわれています。そもそもの悲劇のはじまりはチズルム証言であり、もとをただせば戦争による貴い犠牲にほかなりません。
八名の遺書は、処刑を二〜三時間後に控えて書いたその事に痛みを覚えます。「キリストの洗礼を受けましたが、浄土真宗で葬儀を…」とか、妻に「弟と結婚して家を守って・・・家族仲良く…」など、死の直前とは思えぬ落ち着いた文章で家族への思いをよせる心情に誰もがこみあげるものをおぼえます。しかし、「私は上司の命令に忠実に従ったが、一人も殺していない」「お母さん私を信じてください」など、死を直前にして、なお無実を訴える遺書に私たちは戦争のむごさを強く感じます。あきらめきったような物静かな遺書もありますが、その遺書からはむしろその裏側に、納得できない判決に対するやり場のない抗議の気持ちを深く汲み取ることができます。」
同じく捕虜虐待の罪で収容されていた元大本営海軍参謀の実松譲氏が、最後の夜の四人について記録している。
「田嶋先生から四氏(小日向浩、秋山米作、関原政次、柳沢章)の最後について話があった。この四氏は、直江津捕虜収容所に勤務した人たちで、みな新潟県出身者であるだけでなく、同じように未決時代をすごし、同じ時期に起訴され裁判を受け、そして極刑を宣告された。まことに因縁浅からぬものがある。
刑の執行のために第五棟からブルーに移され、8月19日に”最後の晩餐”をとることとなる。四氏は先生に晩餐をともにしたいと希望した。先生がこれを係将校コーカー中尉に申し出たところ所長と相談してゆるされた。先生が四氏にたいし、「食事について希望はありませんか」とたずねたところ、「酒が欲しい」「ビールを飲みたい」「果物が食べたい」「羊羹を味わいたい」と、めいめい欲しいものを申し出た。これも当局から許可された。・・・これよりさき、この中の一人が先生に遺書を渡し、その内容を一読していただきたいと言った。この遺書は、先生がその立場をかえて本人であったならば、このような立派な遺書は到底したためることができないと思われるほど、悟りきったものだった。そこで先生が「まことに失礼ですが、これはあなたの本当の気持ちですか」と、たずねた。「本当のことを申せば、じつはそうではありません。私はいまでも、アメリカの裁判のきわめて不当なことをうらんでいます。しかし、私が本当のことを書いたならば、私の両親が心配するでしょう。不幸の罪をかさねてきた私が、その死後までも、両親に心配をかけることを思いますとき、こうした遺書しか、書けませんでした・・・」さもありなんと思った先生も、目頭が熱くなるのを禁じえなかったという。
あくる土曜日の午前零時半に執行されることとなっていたので、その三十分前ごろに四人の房をたずねた。やがてブルー地区の仏壇の前にひざまずき、四氏は先生とともに礼拝し読経をなし、おわって恒例のブドウ酒をいただく・・・。この人たちにとっては、「佐渡おけさ」は何よりの慰めであったらしい。いよいよ最後の勤行もおわり、米兵の厳重な警戒のうちにブルー地区から永遠の旅路にのぼる四人の列が獄庭へと囚棟をふみだしたとたんに、だれとなく「・・・ああ、雪の新潟ふぶきにくれる・・・」とうたい出した。たちまち、あい和した声がのどもはりさけんばかり夜空に向かって投げられる。両の腕をMPにとらえられたどの身体も、いまにも踊り出しそうな勢いであった。やがて静まり、念仏の間に万歳をまじえながら、刑場へと・・・。
早乙女勝元氏は児童文学者であるが、東京大空襲に関する記録を岩波新書で出し、反戦を題材とした絵本などの著作も多い。
実松譲氏は海軍の中枢部にいたが、米内光政や山本五十六といった戦争をくいとめようとした海軍大将たちの補佐的な仕事をしていた。捕虜虐待の罪で収監されていたが、その人となりをしっているだれもが無実であると思っていた。昭和33年に釈放されてから、平成8年に亡くなるまでたくさんの書籍を残した。
横浜で戦時中の捕虜虐待の裁判(横浜裁判)が行われた。横浜裁判では331件の事件で1039人が起訴され855人が有罪になった。123人に死刑の判決が言い渡され、51人の刑が執行された。死刑判決のうち49人は捕虜虐待に問われた。しかし、「内容が明らかになっている事件は10件にすぎない」という。アメリカの公文書館には記録が残されているというが検証されていない。日本側の記録は墨塗りになっていて特定できないという。戦犯という見せしめが必要であり、そのための裁判ではなかったかと言われている。