上越note#8ホジ3
「くびき野レールパーク」に行くと、かつての頸城鉄道の車両を見ることができる。花形スターは「コッペル号」だが、「ホジ3」も数奇な運命をたどった貴重な車両だ。
令和4年11月27日(日)に青少年赤十字上越地区賛助奉仕団研修会に参加してきた。「くびき野レールパーク」を運営するNPO「くびきのお宝をのこす会」の会長西山義則氏が「よみがえった頸城鉄道」というテーマで講演を行うからだ。
西山氏は、15年くらい前に同じ職場で働いた時の上司でもある。以前から、お父さんが頸城鉄道の保線の仕事をしていてその縁でくびき野レールパークに関わっているということは聞いていた。講演は、頸城鉄道のことやらレールパークのことやら興味深い内容であっというまに時間がすぎてしまった。とりわけ関心を引いたのが「ホジ3」の話である。今回は、お聞きした話と私が知っている話をあわせて記事にする。
「ホジ3」は、もともとは「ホトク」という特別客車(お座敷列車)であった。「ホ」は客車という意味。特別な客車なので「ホ・トク」。なにが特別かというと、靴を脱いで乗る畳敷のお座敷列車だった。しかも日本で最初の・・・
江戸時代から景勝地だった大池の花見、戦前は高田の花見よりも賑わっていた。頸城鉄道には大池駅があった。直江津や高田の市民も大池に出かけてお花見宴会をしていたのだそうだ。その花見会場へ行くのにお座敷列車を作ったら大人気になった。現在でいえば大人気のえちごトキめき鉄道「雪月花」だ。ただし、いつも走らせていたわけではない。
1932年、このホトクを年間を通して使える気動車に大改造をする。フォードトラックのエンジンをのせて気動車にしたのだ。それで「ホジ」。「ジ」は自走する気動車という意味。それで3台目。自社開発なので、手作り感満杯。車体中央にエンジンをおき、カバーをかけたミッドシップエンジンの列車。エンジンカバーの上は荷物置き場になった。羽田のモノレールに似た感じかな。
頸城鉄道は、旧直江津市の黒井駅から浦川原村の浦川原駅まで、15kmの区間を往復する小さな軽便鉄道だ。本社は路線の真ん中あたりの頸城村にある。田園地帯をトコトコ走るおもちゃのような機関車コッペル号が名物だ。ディーゼルの気動車もあった。しかし、冬は豪雪地帯なので雪と戦いながら走らねばならない。ホジ同様に自前でラッセル除雪車や戦後は日本で初めてのロータリー除雪車まで作った。なんでも自前で作るのが頸城鉄道の自慢。というか弱小私鉄なので、買うわけにはいかなかった事情がある。
戦後のモータリゼーションの前にはひとたまりもない。大阪万博の翌年、1971年に頸城鉄道も軽便鉄道をやめ、バスに切り替える。頸城自動車に名前も変わる。
その年の夏、神戸に住む軽便鉄道マニアの曽我部光明氏が奥さんに内緒で軽便鉄道の車両を数台買い取っていた。六甲山に軽便鉄道を動体保存する鉄道をつくろうとしていたのだ。しかし、法律の問題や土地の所有権をめぐるトラブルなどのため夢は実現しなかった。車両は長い間、山の中に作ったトンネルの中にきちんと保存されていた。
それから長い年月がたつ。1990年頃に、熱心な鉄道ファンの岡本憲之さん(東京在住)が六甲山に軽便鉄道が眠っているという都市伝説を聞いて、神戸まで確かめにいく。曽我部さんが経営するカフェを訪ねるが答えをはぐらかされてしまう。そうこうするうちに阪神大震災があり、カフェは閉店。てがかりもなくなっていた。
さらに年月がたって2001年。上越市との合併が目前にせまっていた頸城村では、草におおわれた車庫だけが面影を残す頸城鉄道を文化遺産として残したいと思う人たちが集まって「くびきのお宝を残す会」(後日命名)をおこす。車庫をあけるとコッペル号が眠っていた。
このコッペル号を復活させることが、この会の第一章となった。本社跡を整備し、短いがレールも敷いて自走ではないがコッペル号を走らせることもできた。合併時の行政支援も受けて、くびきのレールパークとして年に何回かお披露目をすることもできるようになった。
コッペル号のお披露目を聞いた岡本さんは、六甲の山のトンネルに眠る車両の話(都市伝説)を頸城村の関係者たちに話をする。信じられない思いをもって頸城村の関係者たちは神戸の曽我部さんの息子さんである俊雄さんのところを訪ねる。すでに息子さんの代になっていたのだ。息子さんはクラシックカーのレストアを仕事にしていた。古い機械をきちんと動体保存をすることの意味を一番よく知っている。敏雄さんは、動体保存をすることとうまい新潟の米をたべさせてもらうことを条件に車両を頸城に戻すことを了承してくれる。車両は5台のこされていた。客車やディーゼル車、そして気動車「ホジ3」もあった。第二章のはじまりだった。
2004年、頸城村の人たちやボランティアなど30名で車両を六甲の山の中から掘り出して、国道までの道をつくりながら運んでトレーラーに乗せ、33年ぶりに里帰りをする。頸城鉄道車庫近くにあった重機整備工場「株式会社サンコー」も赤字覚悟で協力した。人々の善意が起こした奇跡のような取り組みだった。
現在、ホジ3は整備され、年に何回かのお披露目の時にはエンジンを動かして自走する。たった400メートルではあるが、運ぶのは人々のさまざまな思いだ。
さて、ながながと「ホジ3」を中心に頸城鉄道の話を書いた。
この「ホジ3」を自前で作ったのはわたしの祖父石野荘右衞門である。
ラッセル車やロータリー車など、なんでも自前で作ったのも・・・。
祖父は頸城鉄道の車両整備の親方をしていたのだ。
頸城鉄道の社史の中にも社長日記として
「昭和12年1月15日、新工夫の鉄道ロータリーの威力を見、賞金100円を石野君外一同に給与す。」とある。社史に出てくるのはこれだけであるが、フォードのトラックからエンジンを外して乗せたなどの話を父から幼い頃に聞いている。
ちょっと思い入れがある話でした。