愛知 艦上爆撃機「彗星」 D4Y2(1943)
九十九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機として開発された。「十三試」だから昭和13年(1938)に計画要求書が出された艦上爆撃機ということで、戦争前に余裕をもって設計がなされた。機体設計は、海軍航空技術廠の山名正夫中佐のチーム。特徴は、ダイムラーベンツDB601の国産化エンジン「アツタ」21型を積んだこと。試作機の高速性は当時の戦闘機をはるかに上回り、二式艦上偵察機としても採用された。派生機の種類がたくさんある。
このエンジンが量産機でも本来の力を出してくれれば、メッサーシュミットbf109なみに活躍してくれたはずなのだが、当時の日本の技術ではドイツ並みに仕上げることが出来なかった。ボールベアリングの精度やレアメタルの確保で問題が生じた。ともかく機体ができていても、搭載するエンジンが間に合わない。仕上げて前線に出しても、エンジンのメンテナンスができないという弱点を露呈した。メンテナンスに力を入れた部隊とそうでない部隊の稼働率の差がはげしくなった。エンジン確保が難しいため空冷エンジンの金星六二型に換装した派生型も生産された。
陸軍の三式戦闘機「飛燕」がやはりDB601の国産化エンジン「ハ40」の生産がうまくいかず、五式戦闘機の派生型を産んだ経緯と同じだ。海軍と陸軍で別個にDB601エンジンの国産化をはかり、規格が統一できなくて互換性がなかったというのも大問題。巨額の契約金もおのおの支払ったので、ドイツ人が日本という国は2つあると思ったとか嘲笑ったとか。日本海軍と日本陸軍が仲が悪く、意思疎通ができなかった例としてよく使われるエピソードだ。
水冷エンジンに合わせてしぼった機体はスマートでありながら、爆弾を胴体内に収めることができ高速性が保証された。最高時速550km以上は当時の主力戦闘機の零戦よりも速く、偵察機や戦闘機としても活躍することになる。改良型のアツタエンジンを積んだ彗星12型では時速580km近く出た。頑丈で戦闘機並みの速度や戦闘力をもっていたため、夜間戦闘機や斜め銃をつけて対大型機の迎撃戦闘機としても活躍した。
夜間戦闘機隊として芙蓉部隊の活躍がよくとりあげられている。また、海軍の特攻機として数多く出撃していて、零戦に次いで多い。終戦の玉音放送後(8月15日の夕方)に、宇垣纏中将が彗星11機とともに最後の特攻に出撃している。宇垣中将は、海軍特攻の総指揮をとっていた。「5機もあれば」と宇垣がつぶやいたのに、中隊長が「全員が出撃する覚悟があります」と申し出て全稼働機11機で出撃している。そもそも「・・・あれば」とつぶやくこと自体が、不遜だと私は思う。玉音放送後で神経がみな昂っていたということも考えられるが、そもそもそのような時にも冷静な判断ができなければ全海軍の指揮などとってはならないと思うのだが。せっかく戦争が終わったのに、遺族は無念だったろうな。
<彗星12型>
全長 10.22m
全幅 11.50m
全備重量 2510kg
発動機 アツタ三二型(離昇1,400馬力)
最高速度 579.7 km/h(高度5,250 m)
航続距離 1,517 km
武装 機首7.7mm固定機銃2挺、後上方7.7mm旋回機銃1挺、250〜500kg爆弾×1