上越立ち止まりスポット31金谷山公園その3
金谷山公園の北側、頂上から裏道をおりてきたところの林の中にひっそりと会津墓地がある。南側の高田藩士や薩摩藩士の墓地などと比べてしまう。
戊辰戦争に敗れた会津藩は、領地を没収され藩士と家族は官軍の捕虜となる。高田藩と信州松代藩が預かることになり、明治2年の1月、家老原田一学の一行が1742名の会津藩捕虜を引き取り会津へ出向いた。捕虜は寺町のさまざまな寺院に分散して収容され、善導寺が会議所、来迎寺が病院にあてられた。当時の高田藩は、不作と戊辰戦争で疲弊しており、彼らに対して必ずしも良遇することができなかった。そのため捕虜たちは苦しい生活を送らざるを得ず1年余りの間に67名の病死者が出る。その墓地が会津墓地である。
会津藩は明治3年に青森県斗南藩3万石の地で復活させ、入植開墾をすることになる。また、高田藩は長州征伐、戊辰の役と多大な出費を強いられ、さらに会津藩を預かることになり、藩庫の資金を使い果たし維新後の近代化に遅れをとることになる。