依存と自立

人は、他者なしに生きていけない。

そういう意味では、依存は、人生の本質であり前提である。

一つだけの依存先に依存していると、不健全な関係性になることも多いから、依存先を複数持つことによって健全さを保ちやすくなる。

「自立とは、依存先を多数持つことである」
そういう風に表現している人がいた。確か、障碍を持った方か、障碍者支援をしている方の言葉だったと記憶している。

河合先生は「昔はそんなに自立自立言わなかった。一人前になると言っていた。一人前は、支えられている自分を自覚することでなる」というようなことを言っていた。(どの本かまで今確認しないけど)


翻って、今は、非常に依存先が多い。
だから自立できるし、孤立もできる。

依存先を多く持てているのは貨幣経済が進展したからでもあると思う。
「お金があれば支えてもらえる。買える。」ということで、実際に、僕の支払先は多岐にわたる。

収入の口が一つに依存していると、これはなかなか大変かもしれない。
僕には「主要なお客様」が数社ある、と言えるが、これは自分の健全性を保つうえで非常に重要な要素であると思っている。


「この村なしに自分は生きていくことはできない」という感覚は、現在の都市生活においてはほとんど生じないだろうと思う。

村社会は「村人のみんなに嫌われてしまっては、自分は生きていくことができない」という感覚を持つ、ということでもあると思う。

だからある意味、都市生活の方が「自立している」と言うこともできる。


今ちょっと思うのは「あえて、依存先を限定してみるのはどうだろうか?」ということだ。

「あなた(がた)なしでは生きていけない」というような関係性を持つということ。

逆に言うと「あなた(がた)がいれば私は生きていける」という関係性を持つということ。「あなた(がた)のおかげで私は生きられている」という実感のある関係性を持っているということ。


依存なしに生命がない。
これは、人間の非常に特徴的なところでもあると思う。

多くの野生動物たちが、出産後すぐに立つ。
そして、自分で食べられるようになる。

それに比べて、人間の子供の「依存期間」は非常に長い。これは一つの特徴だと思う。

「誰かに支えてもらわずには生きていくことができない」という時間を、たっぷりと過ごす。それが人間だ。


僕は随分と好き勝手に生きているが、
それは、ごく少数の、身近な人たちの理解と支援によって支えられている。

もちろん、世界はシステム的には全てつながっていて「友達の友達の友達の・・・」とたどっていけば、世界中の人と友達である、とも言える。

僕はどうやら、自己肯定感みたいなものが高めのようだが、それは「たっぷりと依存してきた」からでもあり「今も、たっぷりと依存している」と言えなくもない。

もちろん、依存という言葉を、信頼、支え、ご縁・・・・などの言葉にしていくこともできると思うけど。

一般的な語感で言うと、自立は正義で、依存は悪だということになると思う。確かに「私はあなたに依存しています」「私はあなたなしでは生きていけません」ということは、不健全な感じはある。
けれど「私は誰にも依存していません」「私は誰もいなくても生きていけます」ということにも、不健全さは感じるのだ。

「私は、あなたのおかげで生きられています」そう言うことは不健全だろうか?

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