「気づかせる」はできるのか?
茄子さんから頂いたお題。
気づかない人(感性がないと感じる人)に気づかせることはできるのか?
これは「できる」っていう結論みたいなところから、話を始めたいなと。
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襟が曲がっている人に「エリがまがってるよ」って伝えると、気づいてもらえますね。これくらいならそれほど勇気いらないですね。
チャックがあいている人に「チャックあいているよ」だと、そもそも伝えるのに勇気いりますよね。
でもまぁ「チャックあいている」という事実は共有できそうなので、まだなんとかいけそうです。
それでも「チャックあいてるよ」を伝えるのには、ちょっと配慮も出てきたりします。公衆の面前で大声で「あなたチャックあいてますよ!」という伝え方もできるし、ちょっとほかの人には聞こえないように、近づいてささやく、みたいな伝え方もできますね。
相手の受け取りやすさみたいなことへの配慮って側面は出てくると思います。
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エリが曲がっているということを伝えても「気にしない」人もいて、言われても「ああ、そう」と直さない人もいますね。
「あなた、あの言い方はないんじゃないかな」みたいなことを伝えてもおんなじで「そう?自分は気にならないけどな」みたいなことも出てきます。
これが「見えない心の世界」みたいになってくると、そもそも「事実の共有」自体がとても難しくなってきますね。
「あなたは、お金に対してコンプレックスを抱えていると思うよ。それと向き合った方がいいよ」みたいな話をしたとして、
”コンプレックスを抱えている”という極めて主観的なものは、どうしたらいいんでしょう?
そう伝えて「・・・確かにそうかも。ありがとう、向き合ってみるわ」といわれればほっとしますが「え?意味が分からない」とか「失礼なこと言うなよ。なんだよ!」とかってなることだって、もちろんあり得ます。
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それでもどうしても本人に「気づいてほしい」としたら、これはもう自分の人生を懸けるようなことになってきます。
例えば上司として、部下に対して「そういう態度じゃ成長できないし、ろくなキャリアにならないよ」と思っていたとして、部下の方は「へ?そうですかね?」みたいな感じだったとして、
その部下を”変える”となったら、もう本当に人生を懸けることになります。
四六時中観察して、フィードバックして、カウンセリングして、相手に寄り添って・・・そこまでやったら「変わる」ってこともあるかなと思いますし、「絶対に変わらない」みたいなことではないだろうなと思います。
でもまあ、「上司が部下にやるべき仕事」の範疇を超えてくる、という覚悟はいるだろうなと思います。
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河合先生の初期の本「カウンセリングの実際問題」を読んだときに、僕は衝撃を受けました。クライアントと一緒に暮らしたりしている。「そこまでするのか!」と本当に驚きました。
晩年の河合先生は、そういうカウンセリングの仕方は全然しなくなったようですが、少なくともやっていた時期はあったわけです。
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コーチや、カウンセラーという距離感から、人の変化の支援をすることもできると思いますが、
昔のスクールウォーズよろしく、「先生」が自分の人生を生徒に本当に”捧げて”変わっていく、というようなストーリーはあるんだろうなと。
「ひとつ屋根の下」ってドラマもありましたが、あれも「あんちゃん」は、家族としてホントに体をはりますね。そういうレベルの”接し方”というものも、やっぱり世の中には存在していると思います。
言葉だけで「あなたは傷つかなくていいんだ」とか言っても、まったく感じられない、気づけない、みたいなことでも、人生を懸けて行動されたら、そこにどうしても感化されてしまう、みたいなことはあるだろうと思います。
ヘレンケラーの家庭教師であったサリヴァン先生などは、ヘレンケラーに人生を捧げた人だった、みたいにも思います。それが、サリヴァン先生の人生だったのでしょう。