2002年・日本代表対チュニジア代表戦と、登里少年のちょっといい話。
本日6月14日は、キリンカップサッカー2022の決勝。日本代表はチュニジア代表と対戦します。場所は大阪パナソニックスタジアム吹田。
ちょうど20年前の2002年6月14日。
ワールドカップ日韓大会で、日本代表はチュニジア代表と対戦しています。2-0で勝利し、日本サッカー史上初となる決勝トーナメント進出を決めた歴史的な一戦になりました。奇しくも、場所も同じ大阪の地です。
日韓W杯のチュニジア戦の話題で、自分はある選手の顔を思い出していました。
それは、川崎フロンターレの登里享平です。
なぜか。
実は彼、あの運命の一戦の前座試合に出ていたのです。以前、登里本人にその話を取材する機会があったので、せっかくですし、ここに書き残しておこうと思います。
題して、「登里少年のちょっといい話」。
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当時の登里は小学6年生。
地域のトレセン選抜チームに入るなど、将来有望な少年だった。そんな中、自国開催のワールドカップ、さらに地元・大阪のスタジアムで試合が行われるという、いくつかのタイミングと幸運が重なって、登里少年は前座試合に出ることになったのだという。
日本代表対チュニジア代表戦のキックオフは15時30分。
前座試合はその数時間前に行われるため、集合時間は朝だった。当日の朝、みんなと電車で移動して最寄駅に降りてみると、Jリーグで見たときとはまるで違う光景が広がっていた。
どこを見渡しても青く染まった人、人、人。スタジアム周辺は群衆で溢れかえり、試合開始数時間前にもかかわらず、あちこちでお祭り騒ぎとなっていた。それもそうかもしれない。自国開催のワールドカップ、それも試合が行われるスタジアムなのだから。
「長居スタジアムまでの道のりは、これまでの前座試合とはまったく違いましたね。とにかく、人でごった返していました。サッカーボールの格好をした人とか、他の国の人もたくさんいました。露店もすごかったな。本当に入手困難のチケットだったので、ボードを掲げているチケット難民もたくさんいました」
自分が今振り返っても、20年前の日本列島中のサッカー熱は凄まじかったと思う。日本が勝利すると、若者が一斉に渋谷スクランブル交差点に繰り出して、街中がお祭り騒ぎになっていた。このチュニジア戦は、歴史的初勝利から迎える一戦だったので、ある意味で、ピークに近いような盛り上がりだった。あの光景がどこか懐かしくもある一方で、今後あれを超えるようなサッカーの熱狂が日本中に起きることはないのかなと思うと、少しだけ寂しい気持ちにもなってしまう。
・・・・話を登里少年に戻そう。
長居スタジアムまで向かう道すがら、引率しているコーチから、「ニッポン!と叫びながら歩いたら、絶対にカメラに映るぞ」とささやかれた。それを聞いて、登里少年の目立ちたがり屋の血が騒いだ。
なにせ川崎フロンターレが初優勝でシャーレを掲げる際には、フロ桶を股間に当てるアキラ100パーセントを真似たパフォーマンスを敢行した男である。
登里少年がニッポンコールをして行進し始めると、良い絵が撮れると嗅ぎつけた報道陣がいっせいに駆け寄ってきて、またたく間に人だかりができ始めたのだという。
「大きな声で、ニッポンって言いながら行進しました。脚立に乗っていたカメラマンたちがいっせいに駆け寄ってきた。大阪人なので、カメラ大好きなんです(笑)。テレビとカメラのシャッター音がすごい音で、自分ら小学生が囲まれて・・・あれはホンマにすごかったですね。おかげで、テレビや新聞にもたくさん載りました。たくさんのメディアに乗ったので、翌日の新聞をおかんが買い漁ったぐらいです。新聞の記事は、小学校にも貼られていました」
そんな思い出作りにも成功して、スタジアムに到着。
ただ長居陸上競技場の警備は極めて厳重で、持ち込める物や用具の指定も厳しく、Jリーグとはまったく違う雰囲気だった。やはりワールドカップは違うのである。無事に前座試合を終えると、試合観戦として選手の家族などもいる関係者席に近いエリアに案内された。
「代表戦自体を観るのが初めてだったんです。すごく良い席だったなぁ。長居だったので、後半に森島さんが出てきたときの盛り上がりはすごかったですね。『あれは森島選手のお母さんらしいよ』ってまわりと話していたら、その森島さんが点を取った(笑)。当時のイナさん(稲本潤一)は金髪で、戸田さん(戸田和幸)が赤い髪で、宮本さん(宮本恒靖)とかもいて・・・懐かしいですね。すごく貴重な機会だったけど、試合後のことは、めっちゃ疲れて帰ったことしか覚えてないですね。とんでもない人混みで、電車移動やったし」
試合は森島寛晃と中田英寿のゴールで2-0で勝利。日本代表は、見事に決勝トーナメント進出を果たした。
地元開催で、目の前で見たW杯。その前座試合に出場できたのは、登里少年からすれば、巡り合わせとしか言いようがないだろう。
そして、この出来事は登里少年の夢をいっそう強くさせている。
小学生の卒業文集で将来の夢として「Jリーガーになる」と書いている。「中田英寿、中村俊輔、稲本潤一のようになる」という言葉も付け加えて。
その後、登里享平はJリーガーとなり、稲本潤一とは川崎フロンターレでチームメートにもなっている。
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あのチュニジア戦から、ちょうど20年。少年だったノボリのちょっといい話、でした。
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