自分の棚卸・持っていないモノを数え上げる愚かさを愛せ
「数をこなせば文章なんてうまくなります」
駆け出しの物書き修行中にとって、まことに心強い言葉である。
いつも呪文のように唱えては、せっせとパソコンをポチポチしている。
この名言によるならば、数をこなすのが文章上達の条件であると解釈できると思える。
ラノベ読書やアニメ観賞、さては聖地めぐりはここではカウントされないのはすこし異議も感じないではないけど。
物書き修行を始めてまだ半年もたっていない今のところ、やるべき練習を探すのに苦労もないのは幸い。
単調な練習ではあるものの、10編ほど掌編を書いた。
140文字のSSはまもなく100本になる。
プロットは毎週書くようになったし、添削に1本依頼して結果を待っている。
こないだは3万文字ほどの短編も(一応)最後まで書いた。
前に進んでいる。
量だけは。
一方、昨年の秋から始めた物書きの練習はいろんな事を教えてくれる。
初めての気づきに始まり、吸収する事ばかりがアタマの中に訪れる。
周囲を見回すなら、数々の文章が立ち並び、そのほとんどは私の気づけなかった物事の側面を鮮やかに切り取ってみせてくれる。
持っていないモノ
私は「私が足りない・持っていない」という事を教えてもらいながら、たどたどしく文章を紡いでみる。
何かを表そうとするけど、穴だらけのそれは何を隠すにも隙だらけ。
大いなる賢人なら、見透かせる事柄から数々の真理を示唆してみせるだろうけど。
隠そうとしてみせるそれは、大概はまるで大切なものではなく、暴こうとする人はあてがはずれるという炎上芸にしかならない。
頼りなく弱々しい言葉の群れを量産している私。
いつかしっかりと物語を紡ぎだす機械に育つのだろうか?という不安はいつもふんわり漂っている。
教えてもらった「私の持っていないモノ」を数える時間は、学びに似て、まるで充足のような錯覚をわたしにもたらす。
自嘲を狙って、コンプレックスの落とし穴を掘って自ら落ちて見せるのだ。
手に入れたモノ
持っていないモノを際立たせてみても、持っているモノが浮き彫りにはならない。
結局、今のところ何を書くにも能力不足を痛感するばかりなのだけど、
こういう仮説をもって、先に進むと決めた。
たぶん、だれであっても、足りないモノは数えきれない
それは、先輩作家にも駆け出し見習い物書きにも等しく作用する。
同じ道をたどるすべての人の為に、無限の問いには無限の答えが用意されている。
すべてを見た人はまだいない。
私にもだれにもそのチャンスは同じく持たされている。