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映画『カセットテープ・ダイアリーズ』と原作『Greeting From Bury Park』との違い

 ブルース・スプリングスティーンは多くのファンにとってヒーローと崇められている。人生に悩み、迷っている人にとって、ボスの曲とその存在は道標のようなものになっており、彼の言葉に勇気と希望を見出だす。
 映画『カセットテープ・ダイアリーズ』の主人公ジャベドも自身の人生に迷っている最中にボスの音楽に触れ、人生の転機ともいうべき意識が芽生えた一人だ。映画は、パキスタンからの移民としてイギリスに渡った、思春期を迎えるジャベド個人の鬱屈と、彼と保守的な家族との関係、イギリスで蔓延る人種差別などが折り重なって描かれている。ボスの音楽に感化されてからは、ジャベドのアイデンティティの確立が爽快で、劇中に轟くボスの音楽とともにある種のカタルシスへと導かれる。家族、友情、自立、それらがロックという魔法によって清々しく引き出され、ジャベドの人生を彩る。ラストでの彼の言葉は感動的で、ドラマティックだ。

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 ただ、映画はボスの曲にかなり寄った脚色がなされている。ジャベドの存在や生活の背景を曲に反映させているというより、まずボスの曲ありきで、曲のなかのストーリーにジャベドを当てはめているようにみえる。曲の歌詞が壁に映る、あたかも天啓をうけたような嵐のシーンや、学校の放送室でレコードをかけて逃げ出した後のミュージカルのようなシーン、またジャベドがイライザへの恋心を曲に合わせてうたうシーンなども空々しく感じられる。というのも、自身を確立できない厳しい生活環境にあったジャベドが、あまりに急激に開放的になるその瞬間がどうにもすんなりと受け入れがたいのだ。ボスの曲はさまざまな苦悩や葛藤などを内包している。ゆえにそれを理解し自身に取り込んだとしても、はたして即座にあれだけすべてを吹っ切ったように快活になれるのだろうかといった疑問が付きまとうのである。

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 サルフラズ・マンズールの原作は、彼とボスの音楽とのかかわりについてのみ書かれているわけではない。パキスタン人、ムスリムとしての自覚とプライドを求める父親との衝突。父親とは正反対に、イギリスの生活に心地好さを見つけるが、そのイギリスで人種差別の対象となってしまう苦悩。故郷はパキスタンでもなくイギリスでもない宙ぶらりんなアイデンティティ。家族の望みを大切に思いながら、そこに自分の身をおくことに強い拒絶感をいだく、どうしようもないジレンマ。人種や国籍、立場の違いの壁を打ち破り、普遍的なヒューマニズムを説くボスの音楽は彼に大きな希望を与えてくれるが、現実の問題は眼前に立ちふさがり、依然として自分をさえぎっている。ボスの音楽はけして問題の解決とはならない。ただ、問題に立ち向かおうとするスピリットに強大な力を与えてくれる。作者のマンズールは自身の問題の突破口を見つけるべく、ボスの音楽とともにもがきながら前進していく。
 映画にはそれらの背景があまり描かれていない。原作を読んだあとに映画を観ると端折った部分や大胆に脚色した部分が目立つ。たとえば、映画で、ジャベドがアメリカの空港の入国審査を通るシーンがある。ボスのライヴを観るために訪米した彼は審査官に歓迎されるが、原作でのこのシーンにはもっと複雑な背景がある。彼がボスのライヴを観るために訪米したのは9/11の一年後(映画ではこのあたりのストーリーも改編されている)。当時のアメリカは、その人物がパキスタン人であるというだけで警戒を強めた。偏見の目に晒され、ときにはあからさまに迫害される中東の人々。マンズールはそんな状況下でアメリカに受け入れられるか不安に怯えていた。入国する際、なんの理由もなく拘束されるかもしれず、理不尽な扱いを受けるかもしれない。極度に緊張しながらの入国。渡航目的を聞かれた彼は"ボスのライヴを観るため"と伝える。そこで彼は思いもよらない歓迎の言葉をかけられるのだ。ボスがつないだヒューマニズム、その力を実感する感動的な場面である。


 原作と比べると、映画は、父親との関係や人種差別の問題にも触れているが、全体的には希望にあふれたライトなミュージカル作品としてとらえるのが適切だろう。主人公がボスの音楽との邂逅を経て成長していくという一点にポイントを絞り、軽やかなテンポで進むストーリーはあまりに映画的だ。かたや原作は当時の社会的背景がルポルタージュのように描かれてもいて、そこに対峙する作者の姿がボスへの思いとともに情感豊かに映し出されている。映画にあった恋愛のエピソードもなく、陰鬱な環境にはあるが、ときにユーモラスな語り口もあってマンズールの文章にひきこまれる。映画を観てなにか感じるところがあった人には原作を読むことを強くオススメしたい。

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